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2011年12月24日

MIKO出演のTV映像公開(ウィーン少年合唱団と)

知らない間に自分のテレビ出演時の映像がYouTubeで公開されて
世界中の人に見られていたとはね〜 同僚から聞くまで知りませんでした〜

東京オリンピック(1964年、MIKOが中1の年)に来日したウィーン少年合唱団の
一団員と少女MIKOとの 世紀の「ご対面」 を、 ドイツZDF が企画して、
東京オリンピックから29年経った1993年5月に、ドイツに招待されました。

人気の音楽ご対面番組"Melodien für Millionen"での「ご対面」を、
「流浪の民」(Zigeunerleben)を間にはさんで、ご覧くださいませ。

 ドイツの人気司会者Dieter Thomas Heck氏とのインタビュー
 憧れの団員 Walter Pühringer君との、ご対面の瞬間!!

もっとも、この時点で、かつての少年少女は40歳を超えていて(笑)、
それから更に18年経った今年は、そろって還暦(!)でしたが・・・(爆)

いつもここに来てくださっている方への、
ささやかなクリスマスプレゼントになれば幸いです☆
MERRY CHRISTMAS!   FROHE WEIHNACHTEN!

な〜んちゃって、MIKOってこんなヤツだったのか〜と、
がっかりされて、逃げられなければいいのですが・・・(汗)

ZDF "Melodien für Millionen" Wiener Sängerknaben
MIKOインタビュー → 流浪の民 → ご対面 → Walterインタビュー


ご対面後 ⇒ 天使の歌声  ⇒ FINALE


1964年のヴァルター・ピューリンガー君と、1969年修学旅行(阿蘇)でのMIKO
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関連記事
ウィーン少・独語・TV出演(2009年6月6日)
外国語学習と意義-1(2010年1月26日)


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2010年02月16日

外国語学習と意義 - 2

外国語学習と意義 - 1 からの続きです。

外国かぶれから、海外文通へ

学校の勉強そっちのけの、外国かぶれの少女がたどりついた所は文通です。
ペンフレンド紹介所に幾らかお金を払って、文通相手を紹介してもらいました。

国や男女の別、年令、趣味などをリクエストできます。
私の希望は、韓国、ポーランド、ナイジェリアの少年少女でした。

これらの国を選んだ背景には、小学生のとき父親と一緒に毎日地球儀を見て
遊んでいたので、日本に一番近い国とうんと遠い南半球の国に漠然と憧れたこと、
また、ショパンの『別れの曲』のイメージに憧れたということがありました。

希望通りに紹介してもらえました。これって、実はすごいことなのです。
インターネットはおろかFAXも無い時代、米ドル = 360円の時代ですから!

中学で英語を習い始めたばかりで、まだ自分で文章が書けなかったので
海外文通用の英文集を買ってきて、例文を丸写しして手紙を出しました。

期せずして英語の勉強に

この丸写しという作業、案外、馬鹿にできません。
パソコンもない時代のことですから、すべて手書きです。
書いてみて、文字が不揃いで見た目が気に入らないと、最初から書き直し。
書いては見直し、また書き直しては見直し。

同時に、無意識にぶつぶつと音読で確認作業もしているので、清書をして
封をするときまでには、全部の文章が完全に頭に入っています。

文章が丸ごと頭に入るということは、そこに含まれている文法も単語も
イディオムも丸ごと覚えるわけですから、英作文の参考書を暗記したのと
同じことになります。

違うのは、英語学習カリキュラムに沿っていないランダムな内容であること、
実用的、実践的であること、そして苦労が要らないことです。
楽しいことは楽に覚えてしまうものです。
遊びながら、期せずして英作文の下地を作っていたのでした。

最初に返事が来たのは、ポーランドの少女からでした。
丁寧な文字が並んだその手紙は、ポーランド語で書かれていました。
解読できません! 解かったのは、生年月日だけです。

何とか解読できないかと、当時、名を知っていた地元の大学に電話をして、
ポーランド語の解かる先生はいないかと尋ねましたが、徒労に終わりました。
(こんなことを娘がやっているとは、親は知る由もありませんでしたね。)

韓国の少年からは返事がありませんでした。
紹介されたときの顔写真によると美少年だったので、これは残念(笑)

結局、文通が成立したのは、ナイジェリアの黒人少年だけでした。
ナイジェリアは、アフリカ西部の大西洋に面した国です。
当時いわゆる奴隷海岸と呼ばれた海辺沿いの、都会ラゴスに住む
ムハメッド君という、私より1つか2つ年上の少年でした。

いつも航空書簡(エアログラム)で手紙を送ってくるムハメッド君は
段落の区切りごとに「アーメン」と書いてくる、熱心なキリスト教徒でした。
英語がきわめて堪能、流麗で、しかも達筆でした。

ムハメッド君の手紙を何度も繰り返し読むうちに、そこに書いてある文章は
全部覚えてしまいました。そして、今度自分が手紙を書くときには、
この表現やあの表現を真似してみようと企てるようになりました。

あいにくムハメッド君とは、1966年頃、軍部によるクーデターが勃発して
ナイジェリアが緊張状態となったため、郵便事情が悪化して、日本からの郵便物が
届かなくなり、ついに文通が永遠に途絶えてしまいました。

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(写真: ドイツ語圏からの航空便)

その後、色々な経緯でウィーンの女子高生やウィーン少年合唱団員を始め、
ドイツのレーゲンスブルク聖歌隊の少年など、ドイツ語圏にもペンフレンドを見つけ、
いよいよドイツ語も取り混ぜて文通することになりました。

中学2年生から3年生にかけてのことです。
  
Posted by MIKO at Comments(10)

2010年01月27日

捧げる詩(うた) - 詩人の恋

5月はまだ先ですが、こんな詩はいかがですか?
捧げます。

『詩人の恋』
ハインリヒ・ハイネ 詩 (拙訳)
ロベルト・シューマン 曲

第1曲
美しい五月に

素晴らしく美しい五月に、
蕾という蕾が芽を吹くとき、
そのとき僕の心の中に
この愛が芽生えた

素晴らしく美しい五月に、
鳥という鳥がさえずるとき、
そのとき僕は彼女に打ち明けた
焦がれる想いと望みとを

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen,
Da ist in meinem Herzen
Die Liebe aufgegangen.

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Vögel sangen,
Da hab' ich ihr gestanden
Mein Sehnen und Verlangen.

イム  ヴンダーシェーネン  モナート  マイ
アルス  アレ  クノスペン  シュプランゲン
ダー  イスト  イン  マイネム  ヘルツェン
ディ  リーベ  アウフゲガンゲン

イム  ヴンダーシェーネン  モナート  マイ
アルス  アレ  フェーゲル  ザンゲン
ダー  ハープ  イッヒ  イーア  ゲシュタンデン
マイン  ゼーネン  ウント  フェアランゲン

拙訳を転写掲載される場合は、
お手数ですが、事前に管理人(MIKO)までご連絡の上、
「和訳: MIKO」 とご記載ください。

このYouTubeには、「美しい五月に」以外の曲も入っています。
最初の短い曲が「美しい五月に」です。

ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ (バリトン)
  
Posted by MIKO at Comments(2)

2010年01月26日

外国語学習と意義 - 1

【追記】後日(2011年クリスマスイブ)、テレビ画像を公開しました。


最近、日本ブログ村のカテゴリー「マルチリンガル」に登録しました。
こんなカテゴリーがあることは、たまたま通りがかりで知りました。

そこで、これを機に、外国語学習に関する自分の経験を大雑把に振り返り、
最後に、外国語学習の意義と、今後の展望を考えてみたいと思います。


英語
一昔(二昔 or 三昔?)前、ほとんどの日本人がそうであったように、
私も中学校1年生のときに、学校の授業で初めて英語に触れました。

当時、主流だった教科書 『Jack and Betty』 を用い、
今日では語り草となった、"This is a pen." 方式の展開でした。

"This" も "is" も "it" も聞き取れず、何だかさっぱりわからない私は、
授業中、先生の後について元気よく復唱するみんなに合わせて、
口パクをやっていました(笑)

なぜ声を出せなかったかと言うと、隣りの席の男の子に聞かれるのが
恥ずかしかったからです。

この頃、ビートルズが登場していなければ、あるいは、次回詳しく書く
海外文通を始めていなければ、私は英語で落ちこぼれていたと思います。


ドイツ語
1964年に来日したウィーン少年合唱団に魅せられたのがきっかけで、
中1から、独学で、ドイツ語を始めました。

当時(1964~67頃)は、『少女フレンド』 や 『マーガレット』 などが
毎週、競い合うようにウィーン少年合唱団関連の記事を載せていました。
これでは、夢中になるなと言われても無理な話です。

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この頃のミーハーぶりがきっかけで、29年後、ドイツのZDFテレビ局から
招待されて「Melodien für Millionen」という番組に出演し、かつての団員と
「ご対面」をした話はこちらに ・・・ 「ウィーン少・独語・TV出演」

話をドイツ語に戻します。中1でどうやってドイツ語を勉強したかと言うと、
まず、近所の本屋さんに行って、分厚いドイツ語文法書を買ってきました。

今と違って音声CDなどは一切付いておらず、カラフルな可愛いイラストもなく、
勤勉な大学生がこつこつと勉強するように作られた実に地味な本でした。

当時はそうゆうものしかなかったのです。
とにかく、これ1冊で上級文法まで学べるようになっていました。

私の勉強法は、すべてを声に出して読むやり方です。
家でひとりでやるのですから、他の子に聞かれる心配もありません。

"Das ist ein Buch." とか  "der - des - dem - den" などと、
繰り返し唱えていたことが思い出されます。

英語もまだ始めたばかりでしたから、中1の中間や期末テストでは、
英語の"That is ・・・"と、ドイツ語の"Das ist ・・・"がごっちゃになったり、
英語の"does"が、ドイツ語の"das"になったりして、頭の中が真っ白になり、
苦し紛れの答案を書いて出しました。

クラスメートに、ドイツ語をやっていると言うと、
「英語もマスターしていないのに、ドイツ語やってもねー。
私はまず英語をマスターする!」と反論されました。

これはずっと後になってから思ったことですが、1ヶ国語だって完全には
マスターできないのです。だから、1ヶ国語が仕上がるのを待っていたら、
いつまで経っても次の言葉はやれないわけです。

2ヶ国語、または多言語を同時にやる方が効果的であることについて、
ヒッポファミリークラブの創立者、榊原陽氏が感動的な本を書いています。
これは今回の話の本筋からそれるし、また大変重要な理論でもあるので、
別の機会に単独で触れたいと思います。

次回は、海外文通がもたらした語学の上達について。
  
Posted by MIKO at Comments(12)

2010年01月23日

「冬の旅」 より

フランツ・シューベルト
歌曲集 『冬の旅』 より

詩: ヴィルヘルム・ミュラー  訳詩: 神崎昭伍

凍った涙

凍った雫が
私の頬から落ちる。
涙を流したのに
気づかなかったのか?

涙よ、私の涙よ、
朝の冷たい露のように、
凍りついてしまうほど、
生ぬるいだけなのか?

胸の泉からは、冬の氷のすべてを
解かそうとするかのように、
熱く燃えたち
湧きたってくるというのに!


バリトン: ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ



Gefrorne Tränen

Gefrorne Tropfen fallen
von meinen Wangen ab:
Ob es mir denn entgangen,
daß ich geweinet hab'?

Ei Tränen, meine Tränen
und seid ihr gar so lau,
daß ihr erstarrt zu Eise
wie kühler Morgentau?

Und dringt doch aus der Quelle
der Brust so glühend heiß,
als wolltet ihr zerschmelzen
des ganzen Winters Eis!

ゲフロルネ  トレーネン

ゲフロルネ  トロップフェン  ファレン
フォン  マイネン  ヴァンゲン  アップ
オプ  エス  ミア  デン  エントガンゲン
ダス  イッヒ  ゲヴァイネット  ハップ

アイ  トレーネン、  マイネ  トレーネン
ウント  ザイト  イーア  ガー  ゾー  ラウ、
ダス  イーア  エアシュタルト  ツー  アイゼ
ヴィー  キューラー  モルゲンタウ?

ウント  ドゥリングト  ドッホ  アウス  デア  クヴェレ
デア  ブルスト  ゾー  グリューエント  ハイス、
アルス  ヴォルテット  イーア  ツェルシュメルツェン
デス  ガンツェン  ヴィンタース  アイス!  
Posted by MIKO at Comments(2)

2009年06月06日

ウィーン少・独語・TV出演

【追記】後日(2011年クリスマスイブ)、テレビ画像を公開しました。


クルーズなど台数口のお仕事で、大勢のガイドさんとご一緒させていただくと、
大先輩や仲間のお話が聞け、情報を交換し、交流を深められてとても楽しいです。

今回は、あるガイドさんと昔の思い出話に花が咲きました。
彼女と私の間には、1964年に来日したウィーン少年合唱団がきっかけで
ドイツ語を始めたという共通点があるのです。

私が雑誌『合唱界』に投稿した記事に彼女が手紙をくれたことで交流が始まり、
中3か高1から2年ほど文通していました。

その後、十数年もの歳月を音信不通、消息不明のまま過ごし、
26年ほど前のある日、ガイドとして新幹線の中で奇跡的に出会ったのでした。

名前を聞いて、かつてのペンフレンドだということが分かったのですが、
まさか二人とも同じ職業に就いているとは思いもよりませんでした。

先日、長崎から羽田に帰る機内では、ほぼその話題で終始しました。

   追っかけ

東京オリンピックが開催された1964年に来日したウィーン少年合唱団
追っかけていた少女たちの多くが、私たちと同様にドイツ語を学びました。

私は中1から大学生用の参考書で独学。
高校時代は、カトリック教会でシスターが受け持っていた教室に通い、
大学生や社会人に混じって勉強しました。

そんな風にして、ウィーン少年合唱団つながりで文通していたペンフレンドたちは、
大抵ドイツ語を勉強していました。

ガイドや通訳、大学のドイツ語の先生になった人などを何人も知っていますが、
私の高校の同級生などはウィーン少年合唱団のペンフレンドLR君とゴールイン
してウィーン在住の人となりました。

彼女はエキゾチックな美人で、写真を同封してファンレターを送ったのが成功して、
毎日200通にも及ぶ日本からのファンレターの中できらりと輝き、LR君の心を
掴んだのでした。

W_S_Knabe一方、私のお気に入りのWP君(左)に
ファンレターを送る作戦、私の写真では
絶対に振り向いてもらえないと思ったので

他の女子高の綺麗な子の写真を
自分だと偽って送り、


ぬいぐるみや日本人形やLPレコードも送って、
来る日も来る日も返事を待つも、なしのつぶて(泣)

こうなっては、何が何でも大学でドイツ語を勉強して、

他のファンと決定的な差をつけて、
ウィーンまで押しかけないと!

と思って独文を専攻した次第です。

独文に入学すると、1、2年上の先輩たちも、似たり寄ったりの理由でドイツ語に憧れて
独文に入っていたので、その多くはドイツ語圏に留学して、その結果、国際結婚したり、
海外で就職したりしました。

肝心の自分は、後年、念願かなってウィーンに旅行できたものの、
お金がないため留学はできず、まったく別の道を歩むことになりました。

   テレビ出演

あれから何十年も経った1992年8月、
突然、ドイツのテレビ局ZDFから私宛に特別番組への出演依頼が届きました。

1964年に来日したウィーン少年合唱団の憧れのWP君とのエピソードを綴る

「音楽(ご対面)番組」

を制作したいというのです。

なぜ、私の昔話をドイツのテレビ局ZDFが知っているのか?

きっかけは、こうです。
息子が生まれる前にやっていたガイドの仕事でお世話をしたことがある
ドイツ人のご夫婦が、私のウィーン少年合唱団がらみの身の上話を特ダネととらえ、
同番組の出演者候補として内緒で私をテレビ局に推薦していたのです。

こうして、翌1993年の5月、私は会社から2週間の有給休暇をもらって
ドイツへ飛び立ちました。
私ともう一名が招待されたので、その一名は私の息子になりました。

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フランクフルトの空港までテレビ局からお迎えの車が来ました。

背中に小さなヴァイオリンをしょった3才の息子は、生まれて初めて乗った
飛行機の旅に疲れ、抱っこされたまま眠っていました。

Sindelfingenという町まで連れていかれ、番組制作スタッフや、
私と同様に音楽にちなむエピソードで出演依頼を受けた他の人たちとホテルに滞在し、
舞台監督や司会者と打ち合わせしたり、化粧や髪型や衣装のリハーサル、
そして本番さながらのゲネプロを経て、ライブ本番の日がやってきました。

テレビ局が用意したベビーシッターが楽屋で息子と遊んでくれている間に、
番組は進み、とうとう私の出番が来て、ドイツの有名な司会者と手を取り合って
ステージに進みました。

司会者から受けたライブインタビューでは、
ウィーン少年合唱団の1964年来日の思い出話や
ファンレターをいっぱい送ったのになしのつぶてだった話、でもそれがきっかけで
ドイツ語を勉強したことなどを話しました。

その後、はるばるウィーンから呼ばれていた現代のウィーン少年合唱団
「流浪の民」など数曲を披露してくれました。

   ご対面

そしていよいよ、あの瞬間が来ました。
憧れだったあの少年と果たして「ご対面」なるかどうかの。

あらゆるリハーサルはやったものの、この瞬間のリハーサルだけは
ありませんでした。これだけは秘密裏に進められていたからです。

「ご対面」なるか?!

何と、何と、テレビ局は、私ごときのために、オーストリア中を探し回って、
あの少年を見つけていたのです!

こうして、29年の歳月を経て、ついに憧れの少年と対面できました。

その少年は、年を重ねて、昔の面影ばわずか・・・。

これが世の現実です。
人のことは言えません。私も思いっきりオバサンになっていましたから。

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左側: 司会の超有名人 ディーター・トーマス・ヘック氏
右側: オッサンとなったWP君
後ろ: 現代のウィーン少年合唱団

テレビ出演の後は息子とミュンヘンに行きました。
街の真ん中のカフェレストランに行くと、見知らぬ老紳士が近づいてきて、

「もしかしたら、あなたは昨晩テレビに出ていらした方ではないですか?」

「はい、そうです。」

すると、さっそく奥さんの方を向いて、
「おい、お前、やっぱり思ったとおり、テレビの人だったよ!」

次に、国境を越えてオーストリア、ザルツブルグのモーツァルト生家に行くと、
売店の年配の売り子さんが、

「私、あなたにどこかで会ったんですけど、どうしても思い出せないわ。」
と頭をかかえます。

そこで、私が、
「あの、私、昨日テレビに出てたんですけど、もしかしたら?」と言うと、

年配の売り子さんはキャアッっと叫んで、
「まあ、信じられないわ!昨日テレビで見た人が私のお店に来るなんて!」

一夜にして、ドイツ、オーストリア、スイスの三カ国で有名になってしまった
MIKOでした。

今ではもう、このテレビ出演の話も、夢かうつつか幻のようになってしまい、
ビデオで再確認しない限り、本当に自分に起きた出来事とは信じられません。

   ミーハーな親とその子供

年少_vn小さなヴァイオリンを背中にしょった
3才の息子の手を引いての
きわめて珍しいドイツ旅行でした。

旅先のホテルでもヴァイオリンを練習♪

どこへ行くにもヴァイオリンがお供しました。

バイエルン州の昔のペンフレンド
(元、レーゲンスブルグ少年合唱団員)の
家に立ち寄って泊まったときも、
そこの6人の子供達と音楽を楽しみました。

子供に音楽のお稽古事をさせたのも、

音楽業界の仕事に長く関わっているのも、

老化で固くなった指関節と闘いながら
この年でヴァイオリンに挑戦しているのも、

元はと言えば、ウィーン少年合唱団
レーゲンスブルグ少年合唱団
影響も大きかったと思います。

名古屋を基点に、岐阜、浜松まで追っかけをやって、
しょっちゅう父や母から叱られていた自分ですが、
何が幸いするのかは、そのときには分からないものです。

先日行なった工作機械の会社の仕事でも、ドイツの現地法人の方たちは
私のこのエピソードを前からよくご存知なので、立ち寄った鎌倉の駅前で
明日(6月7日)のウィーン少年合唱団・鎌倉公演のポスターを見つけたときは、
思いっきり冷やかされてしまいました。(・◇・)ゞ
  
Posted by MIKO at