全国通訳案内士、旅程管理主任者。
ドイツ語・英語のガイド国家資格と英検1級・独検1級を所有。

バイオリン&教育ママ人生の思い出と生涯学習による終活日記。

お能、長唄三味線、バイオリン、ピアノ、河川水路・史跡巡り、ウォーキング、ハイキングなどを楽しみたい♪

2012年01月24日

勉強記録第11日目+センター日本史正誤問題(僧兵と強訴)

ガイドという職業柄、日本史の知識は不可欠ですが、偏ったものです。
歴史の中の大きなうねり、潮流、これを踏まえることは必須ですが、
具体的に必要な知識には、文化史、政治経済史、外交史があります。

文化史: 実際に見て鑑賞できるものと、宗教が中心。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像が定朝作で寄木造で時代の要請だったとか、
室町文化と現代の接点、・・・など。

政治経済史: 保元の乱で誰が天皇側で誰が上皇側といった知識は不要。
重大事件の意義は必要。農業や土地制度や経済改革の知識は付加価値になる。

外交史: 歴史を変える節目となった事件をおさえていれば十分。
古代の大陸との関係、遣唐使廃止、鉄砲とキリスト教の伝来、いわゆる「鎖国」、
幕末以降の対外条約、対外戦争、戦後の歩みなどですね。

前フリが長くなりました。仕事のことになると、つい夢中になる性格で・・・

さて、センター試験の歴史は正誤問題が中心です。
この正誤問題というのが実は厄介で、曖昧な知識だと惑わされるのですね。

昨日やった『センター試験への道 日本史』にこんな問題がありました(04追)。
院政期以後に激化した興福寺・延暦寺の僧兵による強訴を扱うもので、頻出です。

以下の四択から正しいものをひとつ選んでくださいね。

1. 興福寺の僧兵は、春日社の神木をかついで強訴した。
2. 延暦寺の僧兵は、春日社の神輿をかついで強訴した。
3. 白河上皇は、自分の心に従わないものとして、賀茂川の水、双六の賽の目、
  興福寺の僧兵をあげた。
4. 鳥羽上皇は、自分の心に従わないものとして、賀茂川の水、双六の賽の目、
  延暦寺の僧兵をあげた。

答えは、明日、発表しますね。

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では、昨日の勉強記録です。
【第11日目】2012年1月23日(月)

『センター数学』
数学1A
二次関数 2005
二次関数 2007
二次関数 2008 (追試)
平面図形 2010 (相変わらず難しいが、だんだん良くなってきた。)
ミニ確率  赤白青の番号のある玉の取り出し(番号が登場)

数学2B
数列 2012 (6日連続にして、13分で全部正解。)
ベクトル 2011 (スセソタチツテは解説読みながら。 トは昨日は断念)

『頻出重要問題集 地学』(旺文社)
昨日は(も)お休み。

『世界史 一問一答』(山川)
昨日はお休み。

『日本史 一問一答』(山川)
P.13 〜 P.22 (2)律令国家の成立

『センター試験への道 日本史』
P.40 〜 P.44 (a)院政と平氏の台頭

『日本史でるとこ攻略法』(文英堂)
昨日はお休み。

『マーク式基礎問題集 古文』(河合塾)
第四問 「枕草子」より (1年ぶりに解く)
音読 (第一問〜第四問)

『マーク式基礎問題集 漢文』(河合塾)
昨日はお休み。

『超基礎国語塾 マドンナの古文常識217』(学研)
No.108 しつらい 〜 No.116 帳台・御帳

『超基礎国語塾 マドンナの古文単語230』(学研)
昨日はお休み。


理科がまた出来ませんでした〜(涙)


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2012年01月18日

勉強記録第5日目+春一番の仕事見通し

1年ぶりでまたぼちぼち仕事が入り始めました。
数日前に豪華客船が座礁してしまったので、少々気になるところですが、
とにかく2012年度は3月のクルーズでシーズン幕開けとなりそうです。

去年も3.11震災の日はクルーズの仕事の真っ最中でした。
石垣島から帰った翌日に震災に遭い、その直後に横浜、神戸、長崎にいたのでした。

3月はそんなわけで忙しくなるので、時間のある今のうちに勉強しておきます。
しっかりとした勉強の土台を作っておけば、旅先でもちょっとした隙間時間に
要領良く何某かの勉強は出来ると思うので、その土台作りに今は励みます。

さて、今日は出かけるので朝のうちに勉強記録を更新しておきます。

【第5日目】2012年1月17日(火)

センター『赤本』
数学1A
二次関数 2008
平面図形 2010 (相変わらず難問。方べきの定理、円周角の定理を見抜くこと。)
確率 2009 (3日連続で同じ問題)
数学2B
数列 2010 (群数列と部分分数分解のさわりとして良い練習)
ベクトル 2010 (かなり良い感じになってきた。後は計算ミスをしないこと。)

『和田式センター数学』(学研)
昨日はお休み。

『頻出重要問題集 地学』(旺文社)
No.68 放射年代 〜 No.71 

『世界史 一問一答』(山川)
P.9 エーゲ文明 〜 P.14 アレクサンドロスとヘレニズム(繰り返し)

『日本史でるとこ攻略法』(文英堂)
Np.8 渡来人とその祖先 〜 No.16 藤原京を囲む大和三山

『超基礎国語塾 マドンナの古文常識217』(学研)
55 〜 71

『超基礎国語塾 マドンナの古文単語230』(学研)
No.143 あし 〜 No.154 かたほなし

『マーク式基礎問題集 古文』(河合塾)
昨日はお休み。

『マーク式基礎問題集 漢文』(河合塾)
昨日はお休み。

反省
出来る範囲で頑張ったので反省点はありませんが、
勉強のために後回しにしていたお手伝いの仕事が深夜に及び、
寝るのが遅くなってしまいました。


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2011年11月26日

勉強も仕事も大事!

書くことが多過ぎてアウトプットが間に合いません(笑)

11月20日(日)の鎌倉ハイキングは、それは実り多いものでしたが、
岩宿遺跡を発見した相沢忠洋の故郷を歩くという熱烈なる思い入れが伴うので、
そう易々とは書けないのです(涙) おそらく12月に入ってからになるでしょう。

そうこうして慌ただしい一週間を過ごす間に、
幸運にも次の仕事が舞い込みました。
英国のジャーナリストとカメラマンの取材に同行するというものです。

例年ならドイツ語がメインなのに、なぜか英語が続きますね。
ドイツ人が放射能アレルギーで日本を避けている証拠です。

とにかくその取材のための下見に今日1日を充てていました。

東京湾アクアラインの海ほたる、お台場の未来科学館、カプセルホテル、
タトゥー施術院、地下立体駐車場、秋葉原、高円寺界隈など、
いつものガイドとはまるで様子が違うので、下見が絶対に必要です!

でも今日である必要はないのですね。
そこで、予定を変更して今日は勉強の日としました。



数列のセンター過去問や旺文社の実践問題集1Aをやっています。

世界史の教科書音読も進めました。
独ソ戦争と太平洋戦争の項で、ファシズム国家ドイツと日本の強行な政策に
涙を流しました。

このところ「鎌倉」づいたので、今日は日本史の中世も音読します。
鎌倉・室町も、臨場感豊かに音読できればと思います。

しばらくは受けないと宣言した模試も、来春の駿台高2マーク(全科目)は
受けてみようかなと思っています。 歴史2科目が必要です。



でもまずは次の仕事3日間を無事に終わらせなければ、
新春のことを具体的に思い描くことが出来ません。

それほどに仕事は毎回が真剣勝負です。

特に風評で仕事が途絶えて以来、僅かながらでも入ってきた仕事は
絶対にどんなことがあっても、成功裡に終わらせねばなりません。

受験勉強は大事、でも仕事はもっと大事。
我々フリーランスの通訳ガイドにとって、毎回が真剣勝負です。

そして私たちの仕事次第で日本の印象ががらりと変わるので、
日本のイメージを背負って責任重大です。


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2011年11月06日

震災後のサバイバルは「待つ」から「動く」への意識転換から

少々日にちが経ってしまいましたが、
10月終わりのある日、某社団法人主催の講演会を聞いてきました。

東日本大震災と原発事故に伴う風評によりかつてない苦境に立たされている
我々通訳ガイドのサバイバルに関するものです。

しかし実際には、職業に関わらず、普遍的な価値を持つ、
サバイバルのための自己意識改革への提案でした。

参加者の多くは60代、70代で、中には1950年からこの道一筋に生きてきた
80才を越える高齢者もいました。

大半が男性で、企業戦士を定年退職してセカンドライフに通訳ガイドを考える
団塊世代と思われる姿も見受けられました。

ええっ〜、もはやセカンドライフの職業になり果てたの?
これを専業にずっと生きてきた我々はどうなるの?

1ドル360円時代には、運輸省の難関「通訳案内業」試験に合格しガイドになると
「民間の外交官」として持てはやされた、あの憧れの職業は一体どこへ?

「観光立国」を目指す日本の動きに完全に逆らっているじゃない?

2008年リーマンショック以来、否それ以前から斜陽の一途をたどってきた職業を
震災と原発事故が襲い、今や完全に経済的弱者と位置付けられてしまいました。


ともあれ、
3名の講演者によるお話から貴重なヒントを得たので記録しておきます。

1. これまで我々の大半は、旅行会社に頭を下げて登録してもらい、
  仕事の依頼が来るのを、ただ受身的に待っていたのではないか?

2. 経済危機や自然災害、原発事故といった、自分には成す術のない出来事を
  ただ不運だと悲観し、誰かが何かしてくれるのを待っているだけではないか?

3. ここで、そろそろ受身的な姿勢をやめて、

  ひとりひとりが「日本のセールスマン」として「日本」を売り込む、
  あらゆる手段を通じて「安全な日本」「美しい日本」をアピールするといった
  発想の転換をはかれないか?

4. 我々の中に一体どれほど「個人事業者」の自覚を持つ人がいるのか?
  弁護士や税理士同様に「士業」とされ、名称が「通訳案内士」に変更されて
  久しいが、おそらく大半の人は旅行会社に雇われている気分でいる。

5. 雇われ気分、つまり「他力本願」でいたのでは、
  その旅行会社が倒れるときには、自分も運命を共にする。

6. そうではなくて、自分が主体となって行動を起こす。

  例えば、お薦めの旅プランを立案し、海外の旅行会社に直接提案する。
  反響が得られれば、実現出来るように後は旅行会社にお願いする。

  旅が成立した暁には、プラン料をちゃんと請求し、
  責任を持って自分がその旅に添乗し、ガイドを務める。

7. 何ごとも一点集中はリスクが大きい。少なくとも三点にリスクを分散する。

  契約会社を複数にする、
  異業種の資格を取り、異業種との接点で新たな可能性を模索、編み出す、
  コンサルタント業(資格不要)と抱き合わせて何か出来ないか考える、など。

  人との差別化を試みることで、新たな可能性が生まれるかもしれない。

8. 自宅を事業所として登録し、青色申告をする。 または会社を作る。
  これに関しては自分は白色申告をしており、また別業種で会社も作ったので、
  今のところはこのままで良い。

9. 合衆国では「フリーエージェント(誰にも雇われない人)」が労働人口の
  4分の1を占めるという事実がある。
  我々も、「誰かから仕事をもらう人」から「自分で仕事を生みだす人」へと、
  意識改革をはかる時期に来ている。

以上、とりとめもないメモ書きですが、今後の指針としました。


まあ、何にせよ、思い立ったら行動開始ですね。

その第一歩として、
Facebookに載せておいた白川郷の合掌造の写真にコメントをくれたドイツ人に、
白川郷と合掌造の説明を書いて返信しました。

また海外の某社に売り込みメールを送り、さっそく昨日、前向きの返事が来ました。

「待つ」から「動く」へ、意識の転換が始まりました。

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この機会に、講演会で紹介された本を載せておきます。
自分はまだ読んでいませんが、寄せられた沢山の講評を読むと、
困難な時代を乗り切るための生き方の選択肢としてヒントになりそうです。

freeagent





フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか
  
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2011年09月01日

津波から救助のドイツ人、命の恩人に

3月11日、宮城県多賀城市内をドライブ中に津波に襲われたドイツ人一家が、
通りかかった日本人の臨機応変な対応により九死に一生を得、願いがかなって
このほど命の恩人を見つけたというニュースを読みました。
いや〜、よかったですねえ! 河北新報 8月30日

でも、この話を聞いて、また震災のことを思い出しました。



震災の直前、私はドイツ人観光団体を連れて沖縄那覇にいました。
沖縄で別れた後、同団体と3月12日に横浜で再会することになっていました。
そのための打合せが3月11日に横浜で入っていました。

打合せに出かけようとシャンプーをしていたときに揺れが襲いました。
皿や茶碗は割れる、本は落ちる、ピアノは動く、子供は都内のどこにー?!?
コワさと不安で震えるも、とにかく打合せに行かなくちゃ! 時間だ、どうしよう!と、
そっちの方が気がかりで焦りました。

横浜一泊分のケースを持って駅に行くも電車が止まっていることがわかり、
いつになるかもわからない復旧を待って駅前のカフェで何時間も過ごしました。
その間にも何度か余震がありました。

深夜になり、旅行会社から、とにかく何とかして横浜に来るようにと言われました。

子供が高円寺からかなりな距離を歩いて、それから何とか電車に乗り継いで
未明に帰ってきたので、無事な再会を喜び合った後、ほんの1、2時間睡眠を取り、
翌早朝まだ暗い中、横浜までタクシーを飛ばしました。



着いてみると、結局仕事はキャンセルで、仮眠用に提供されたホテルで少し眠り、
桜木町まで歩いて、それから電車を乗り継いで帰ってきました。

震災後の月曜日、「神戸と長崎はツアーがキャンセルにならずに済んだから
とにかくどうゆう方法を使ってでも、神戸まで来るように。」と言われました。

駅前のタクシー乗り場に1時間以上も並んで、ようやく来たタクシーに
知らない人3人と声を掛け合い一緒に乗って、取りあえず調布まで行きました。



その後、あっちで待ち、こっちで待ちしながら何とか乗り継ぎ、神戸に着きました。
閉園まぎわの六甲ガーデンテラスと、墨を流したような夜の灘の白鶴酒造を
必死で下見したことが忘れられません。



神戸の後、長崎に飛んで、島原半島をやりました。
島原の武家屋敷を見学中、ガイド仲間の携帯に、早くも春のツアーキャンセルの
知らせが入ってきました。

震災と津波、原発事故のニュースは、ヨーロッパでも大きく報道され、
直ちに、現地の旅行会社から春の日本行きキャンセルの申込が殺到したのですね。

今思うと、あの神戸と島原が、今年のほとんど最後の仕事でした。
3月、4月、5月のツアーは、ことごとくキャンセルされました。
桜とツツジの季節が、私たち通訳案内士にとって一番の稼ぎ時なのに。



あの後、6月に小樽と札幌に行けたのは、まったくの奇跡です!☆
(神さまに感謝、感謝・・・)

秋もまるでダメですね。
通常なら今ごろは、9月、10月まで仕事の予約が入るのに今年はさっぱりです。

ガイド仲間やバスのドライバーさん、旅行会社の営業担当者によると、
原発の風評がおさまってツアーが動き出すには最低1年はかかるようです。

来年3月まで、あと半年か。 もう、待つしかないな。
しょうがないから、会社の仕事と受験勉強を頑張ります。

そんな中で、ドイツ人の命の恩人が見つかった話題は久々に明るいものでした。


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2011年06月19日

原発アレルギーのドイツ人

ドイツ語ガイド仲間のA氏から昨日届いたメールです。

=================================================
ドイツの皆さんには最新情報を常に連絡し、早く日本に見えていただけるように
お願いしていますが、放射能は? 汚染水の処理は? などと、日本発の新聞記事の
否定的な面しか読んでいないらしく、色よいコメントがいただけません。

ドイツの原発アレルギーにはホトホト困っています。

ヒマになった分、お蔭といいますか、他の仕事の方に協力できますが、
肝心のガイドの仕事が回復してほしいですね。
=================================================

まったく同感です。
風評に惑わされて日本行きを自粛するのは、いい加減よしましょうね。


先日、小樽・札幌でお世話した団体の中にいたピアニスト氏。
初めての日本に大・大・大感激していました。

「いっぺんに日本が好きになっちゃった! またチャンスがあれば
直ぐにでも舞い戻りたい! ああ、次が楽しみ!!」

お別れの握手をしたときの、満面をうれしさで輝かせ、はしゃいでいた
無邪気で人なつっこいピアニスト氏のことが忘れられません。

来てみればいいのです。
勇気を出して来てみれば、ここが良いところだってわかるのです。

ひとり、またひとり、日本の良いイメージを持った人が国に帰って、
まわりの人に日本の良い話を伝えてほしいです。

草の根的なひとりひとりの良い思いが、いつしか輪となり実を結んで、
また大勢のドイツ人が、いえ、世界中の人が、日本に来てくれますように!
  
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2011年05月25日

久しぶりの仕事に心そわそわ

先日の記事にも書いたように、地震直後に行った神戸と長崎島原ツアーの後、
2ヶ月半ぶりに今週、通訳ガイドの仕事が1日だけあります。

たった1日なのに、訪日客10名ほどに対して日本人が10名ほど付き添って、
ほぼ1対1の対応でおもてなしをするようです。

そして、このたった1日のために、先日都内で打合せがありました。
打合せは15分で終わったのですが、郊外に住む者にとっては半日がかりでした。

訪日のお客様からは私の仕事を、まず間違いなく喜んでいただけると思うのですが、
対応の難しいのが日本人同行者です。

当たり障りのないガイディングとなるよう内容を取捨選択しなければいけないので、
一番気を遣います。

たった1日の仕事のために、今週の始めから気分がそわそわして落ち着かず、
勉強にまるで身が入りません。

今度の日曜日に、河合塾の記述模試があるというのに、
日々の勉強ノルマに大幅な支障をきたしてしまっています。

こんなことなら、仕事、断れば良かった・・・・・。
でも、エージェントから是非あなたに!と指名されたので、断れませんでした。

それに、3万ちょっとの日当と、打合せ手当の若干額が、
この時期、有り難いことは否めません。

でも、そのために何日も、心ここにあらずとなって、勉強がおろそかになるなら、
やっぱりマイナスかなあ。

旅行のプロとは言いながら、気が重くてしょうがない仕事だって、
ときにはあるのです。

愚痴をこぼしていても始まらないので、とにかく明日、頑張ってきます。
そして、明日さえ乗り越えれば、残り2日間を模試に向けられるでしょう。
  
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2011年05月19日

通訳ガイドは震災原発失業中

Kein Wunder, dass ich arbeitslos bin!
こりゃ失業するのも、無理ねえよ!の意味 (独語)。

政府観光局の今日の発表を読んで、なるほどと、
震災以来失業中の、ガイドMIKOのため息ではある。

5月19日(木)のニュースより抜粋
================================================
<産経新聞>
4月の外国人旅行者、過去最大の62%減 原発事故の影響続く

日本政府観光局は19日、4月に日本を訪れた外国人旅行者数(推計値)が
前年同月比62.5%減の、29万5800人だったと発表した。
下落率は東日本大震災が発生した3月の50.3%を抜き、過去50年で最大となった。

震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故で、訪日旅行のキャンセルが相次ぎ、
新規予約も含め全国的に訪日旅行者が減った。

前年割れは2カ月連続。30万人を割り込むのは、新型肺炎(SARS)が流行した
2003年5月以来、7年11カ月ぶり。

観光局では「足下では(外国人旅行者が)戻る流れはある」としているが、
原発事故の不安定な状況などが続く中、依然として先行きは不透明だ。

<NHKニュース>
外国人旅行者 最大の落ち込み

先月日本を訪れた外国人旅行者は、東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所
の事故の影響で、去年の同じ月に比べて62%減少し、過去最大の落ち込みとなりました。
(中略)
主な国や地域別で見ると、アジアでは、香港が87%、シンガポールが82%、
韓国が66%、中国が49%、減少したほか、

欧米では、フランスが68%、ドイツが67%、アメリカが55%、それぞれ減少しました。
================================================

一年中で一番の稼ぎ時に、完全にガイド失業したMIKO。
いや、ガイド仲間は、皆、そう!


何十%落ち込んだって、残りの何十%は来日しているじゃんって?!
とんでもない!
残りの何十%は、リュック姿の個人客や知人訪問だから、ガイドなんか雇わない。

ガイドを雇うのは、パッケージツアーや、手配旅行や、企業の招待旅行など、
旅行会社が扱う団体旅行や富裕層の個人客で、そうゆうのは軒並みキャンセル。

国土交通省の超難関の国家試験に合格し、都道府県知事より免許を受け、
個人事業者として働く、私たち通訳ガイド。


なのに、なのに、
震災直後の神戸、長崎、島原は別として、
それ以後、仕事は、2ヶ月半ぶりに、来週たったの1日あるだけ。
だから、あれ以来、5月末までの稼ぎは、たったの、たったの、3万ちょっと!

先行きも不透明。

副業の方も、円高やら何やらで、減収の一途。

なのに、今日、市民税の納付用紙が来た。
月々の納付額、去年より、4,000円も多くなってるよー!


  
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2011年03月28日

地震で失業、でも歩き続けます

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3月27日(日)、ウォーキング中に桜並木の横を通りかかりました。
どの木もまだ固いつぼみをつけていました。

3月27日と言えば、子供が小さい頃、武道館でバイオリンを弾き終わると、
靖国神社に花見に立ち寄って、熱燗で一杯やるのがお決まりのコースでした。

だから、経験的に、3月27日には大方、桜が見頃と思っていました。
それなのに今年はまだ空気がとても冷たくて、開花はまだまだですね。

一方、モクレンは今にも咲き出しそうです。

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地震と原発事故の影響で、4月も5月もツアーがキャンセルとなりました。
私だけでなくガイド仲間のみんなが、この春は失業の身となりました。

旅行会社はもとより、ホテル業界、レストラン、観光箇所、土産物店など、
外国人観光客を受け入れるすべての施設が、訪日団体のキャンセルにより
大打撃を受けています。

国土交通省が展開してきた「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の間には、
2008年秋のリーマン経済危機と円高による大打撃を経験してきましたが、
ようやくそれを徐々に回復しながら、客足を伸ばそうと意気込んでいた矢先に、
今度は自然災害です。

サルスの流行や世界的なテロ続発のときもそうでしたが、
大事件が起こる度に、就業の機会を奪われる、他力本願の業界です。

桜とツツジ、秋晴れと紅葉、この春と秋二つの季節に仕事が集中し、
それによって1年分の収入を稼いでいるので、春が丸々つぶれることイコール、
ガイド年収の半分がすでに失われたことを意味します。

sakuraso260311


















でも、一瞬にして家を奪われた人、家族や一家の大黒柱をなくした人、
仕事に復帰できない人、就職内定を取り消された人、・・・・・・

東北の被災者の皆さんが今日もなお寒い中、明日のことさえわからないのに
頑張っていらっしゃることを思えば、自分の失業などは何でもありません。
貯金を食いつぶしていく一年間にはなるけれど、前進あるのみです。

4月半ばになると、あたり一面をピンク一色におおってくれる芝桜が
ほんのわずかですが開花し始めていました。↑

道端では水仙が健気に花をつけていました。↓

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春は必ずまた廻ってくる。
だから今は、今やれることを頑張ろう。

たっぷりと時間を与えられたのだから、思いっきり勉強に励もう。
1日1回のウォーキングで健康を維持して、節約にも励もう。

生まれ故郷ではないけれど、ようやく住み慣れてきた、この地で、
今年もまた、まもなく満開の桜が心を潤わしてくれる、この地で、

今出来ることをやりながら、今日も歩き続けます。  
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2011年02月23日

NZ地震とNZ南極事故

ニュージーランド地震が大惨事になってしまいました。

「英国よりも英国的な」としばしば形容されるクライストチャーチ、
町を象徴する大聖堂、毎年のガーデンコンテストで庭の美しさを競い合う邸宅が
並び立つ美しい町並み、名門国立カンタベリー大学の歴史と伝統・・・・・。

その昔、ニュージーランドで現地ガイドをしていたとき、クライストチャーチには
何度も足を運びました。あの美しい町が今こんな惨事の舞台になるなんて・・・・・。

ニュージーランド航空の南極遊覧飛行機が、南極の氷山に激突して墜落し、
日本人数十名を含む多くの人が犠牲になったことを、昨日のように思い出します。

何気なく聞いていたラジオから、いきなり流れてきたそのニュース。
「今日オークランドを出発して南極に向かったNZ機が消息を絶ちました・・・・・」
その後、刻々と状況が伝えられるにしたがって、ことの重大さに体中が震えました。

あの南極事故の後くらいから、急速なテンポでニュージランドへの人気が高まり、
ワーキングホリデー制度を利用して長期滞在する若者や留学生も増えてきました。

平和そのものに見える地球の一片隅で、いつ何どきこのような災難が起こるか、
つくづく一寸先は闇です。

夢と希望に胸をみなぎらせて現地を訪れた多くの方々の安否を考えると、まったく
他人事とは思えません。自分の身に降りかかったとしても不思議ではなかった・・・・・。

一刻も早く皆が救出され、夢を実現できる日が来ますように心から願っています。  
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2011年02月18日

確定申告終わり還付待ち

例年この時期を逸すると、6月まで手がつけられない確定申告。
今年は、早々に、2月17日(木)にやり終えました。

他にも税務署への誤納税の還付請求もあったので、
それも合わせると、税務署関係だけで、一日つぶれました

模試直前なので、こんなことは後回しにしようかなあとも思ったのですが、
後になればなったでツアーシーズンが始まって、それどころではなくなるのでね!

特定扶養親族や特別寡婦など次々に控除し、見る見る所得が減っていきました。
結果、年税額がゼロになりました。 よって納めた税金が全額戻ります。

面倒な作業を一日がかりで頑張れたのも、その楽しみがあったからこそです。
でも、私のような日雇い・フリー・兼業の人は、申告が義務ですけれどね。  
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2011年01月26日

うれしいこと3つと模試計画

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お正月以来の、東進模試申込み不受理の件では、相当傷つき、ストレスも最高潮に
達しましたが、ようやく今日、ある会場で受験させていただけることが決まりました!

さて、今週は、他にもうれしいことがありました!!
世界的な某・日本企業の在ドイツ法人様からご指名をいただいた報奨旅行、
総勢25名様のツアーが、成田空港で成功裡に終了したのです。

同社の大阪本社訪問時の記念写真が貼られ、全員が寄せ書きした色紙と、
愛らしい花束、チョコレート詰合せ、デパート共通商品券、を心付としていただき、
皆さんと握手や大きなハグをして、お別れしました!☆

そして、成田からの帰り道に、教科書を取りに行きました。
まっさらの教科書を前にして、気分晴れ晴れ、わくわく。  急がば廻れ!

2月13日 代ゼミ 「高1マーク模試」
2月20日 東進 「本番レベル模試」
3月13日 駿台 「高1マーク模試」  を目指して、今日より勉強再開!
  
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2011年01月11日

出張先より短信

無事コンサート初日が終わり、今日は次の公演地に向かいます。
写真は初日のリハーサル風景。

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スキマ時間の勉強もままならず、まったく時間が足りません。

昨晩は、数学の基礎の出来ていないことが夢に出てきて、うなされました。
どんなに時間がなくても、数学にだけは時間を割きたいのに・・・。

受験回想記事、再掲示
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
大学受験(7) - 東大本番(浪人時-1)
  
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2010年11月28日

芦ノ湖の富士山と、ガイド業

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あちこちの学園祭を飛び歩いた後は、仕事の1週間でした。
見積書を送ったり、問合せメールに返信したり、出納帳をつけたり。

その合間を縫って、ガイドの仕事もありました。
グリム兄弟の町「カッセル」からいらしたご夫婦と一緒に歩き回った日々。
その最後を締めくくった、11月27日(土)の箱根観光。

朝一番のロマンスカーに乗って、二人を迎えにいきました。
二人は、保津川下りや京都観光をやった後、再び関東に戻ってきたのです。

恩賜公園からの、芦ノ湖と富士山の眺め (↑の写真を拡大したもの)

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恩賜公園は、立ち寄る人が少ないので、とても静かな穴場です。

私は時間の許す限り、いつもここに来ます。
特に、昨日のように絶景の富士山が見える日には、絶対に外せません!

さて、見晴らし台で、見知らぬ日本人男性から声をかけられました。

話を聞くと、その方は、昔、イタリア語のガイド国家試験に合格し、
今から2週間後に、ロシア語ガイド国家試験(2次)を控えているとのこと。

サラリーマンなので、ガイドとして働いたことは一度もないそうです。

「ガイドじゃ、食べていけないですものねえ~~。」と、二人でため息。

語学は単なる趣味とのことで、これぞ、 賢明な生き方!!

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ロマンスカーで東京に戻りました。 お別れの言葉。

特に何らすごい具体的なイメージも描かずに、取り合えず日本に来てみたが、
変化に富んだ行程で、見るもの、経験するもののすべてが、期待をはるかに上回り、
国に帰ったらぜひ人にも「日本」を勧めたい。 それに、ガイドが素晴しかった!

貧乏覚悟のこの稼業ですが、このひと言で、すべての苦労が報われます。

      

一人だけの夕飯を作る気がしないので、帰りは外で食べました。

栗カボチャと松の実のお粥と、ミニ酸辣麺と、杏仁豆腐。

お粥は、はとむぎ入り。麺には、蒸鶏と豆腐とトマト。
セットで1,080円(涙)ですが、頑張って働いたのだから、自分へのご褒美です。

ちなみに、この「粥餐庁」という、超お気に入りのお店、
私の行動範囲では、新宿と、あと、セントレア空港にしかありません。

ウォーキング記録:
11月23日 都内1日観光 歩数:26,327歩
11月24日 日光日帰り観光 歩数:19,230歩
11月27日 箱根観光~東京 歩数:17,741歩

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2010年08月08日

気は持ちよう、自分次第!

行きたくない! 気が進まない! と、憂鬱な気分で過ごした8月の日々。
それも過ぎて、今日、ついに12日間のツアーに突入しました。

決して仕事が嫌いなわけでなく、行けばちゃんと頑張れるのに、
これまでに幾度となく愚痴っているように、行くまでは気が重いのです。

会社の仕事をやり、勉強もし、洗濯やゴミ出しなどが出来る日常から、
非日常的な生活に180度急変する、その差に、心がついていかないのです。

ところが、今朝、お客様の笑顔を見たとたんに、重たい気分が吹き飛びました。

みんなから頼られている! 必要とされている!
そう思っただけで、昨日までの自分とはまったく違う別人になりました。

「旅になんか出ていたら、勉強が出来な~い!!」 と嘆く代わりに、
今ある仕事に没頭することで、気持ちに折り合いをつけることにしました。

そして、その中でも貪欲に、勉強との接点を探してきます。

今回のツアーでは、生まれて初めて鞍馬に行きます。
また桂離宮に行くのは、いったい何年ぶりのことでしょう!

さらに、昔は修学旅行の定番のコースだったのに、
お庭の保護のために拝観が制限されて久しい、西芳寺(苔寺)の
拝観許可証も取ってもらっています。

奈良では、室生寺の金堂と五重塔も見られます。

今日は、太田浮世絵美術館に行って、広重や北斎を見てきました。
箱根では、箱根美術館で、日本の陶磁器コレクションを見られます。

これは、日本史の文化史を勉強する良いチャンスです。

数学や他の勉強は確かに遅れますが、生の文化遺産に触れられることは
大いに喜ぶべきことで、積極的に活用しない手はないと思いました。

(8月8日の歩数:17,870歩)  
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2010年04月17日

遅い雪便りとガイドの高齢化

4月15日(木)

横浜の三渓園で見つけた、サクラソウの展示会。

桜の咲き終わった後の園内、冷たい雨の降る中、
可憐な花が、わずかに明るさを添えていました。

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4月16日(金)

箱根のホテルで朝5時半に目覚めました。

カーテンを開けると、雪、雪、雪!

気温も0度で、この時期の寒さと、遅い雪という点では、
関東地方では、1969年以来、実に41年ぶりとのことです。

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一方、アイスランドでは火山噴火の火山灰の影響で、
ヨーロッパ北部の多くの空港が閉鎖され、
16,000便以上が欠航となったとのニュースが・・・。

まさにちょうど、日本の活火山の活動や、
江戸時代の富士山の噴火の話をしていた矢先の出来事でした。

私のお客様たちが帰国される頃には、
空港も正常に戻っていることでしょうか。


それよりも、昨日、今日あたりに来日する予定の
海外からの観光客の足が奪われたことにより、私たちガイド仲間の多くは
突然のツアーキャンセルに泣いています。

完全なる季節業。

春と秋にしか仕事がないというのに、
円高や、こうした不慮の災難の度に、就業の機会を失ってしまうのです。

何とも、割の合わない仕事です。

この仕事に就く若い人が減って、ガイドが高齢化しているのも
無理のない話です。

現役のベテランは、皆、50~60才代。
70才以上も珍しくありません。  
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2009年12月31日

大晦日に思う

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2005年12月31日撮影 ↑↑↑
ニューヨーク 「メイシーズ」デパート のイルミネーション

世の中には年末ぎりぎりまで働いている人たちもいるというのに、
私はこのところ、ぐうたら生活です。

通訳ガイドは、冬場はシーズンオフで開店休業中。
例年そうなのですが、それにしても依頼の電話はゼロで、わびしい限りです。

今日計算してみようと思いますが、ガイドの年収は半分に減ったでしょう。
円高や、SARSや新型インフルエンザなどの流行にすぐに左右されるのです。

通訳案内士国家試験の口述・面接試験の試験委員を務めることがあります。
12月のその日、朝から夕方までに37名ほどの受験生に接します。

何が何でも合格せねばと張り詰めた表情で受験する人たちに、
「この仕事では独り立ちしようにも食べていくのは厳しいよ」と、
こっそり教えてあげたいような気持ちになったものです。

一方、小さな会社経営の方も、昨年から続く円高の影響を受けています。
ヨーロッパ相手のサービスの輸出なので、商売あがったりなのです。

それに、慢性的な人材不足の問題もかかえています。
これが解決されない限り、注文が増えても断らなければなりません。

世に失業者があふれていても、それで埋め合わせが出来ないのです。
例えば、アルバイトがちっとも見つからない自分の子供に手伝えるかと言うと、
大学生ではまったく使いものになりません。

こんなわけで、今年は忙しくしようにも仕事量が少なく、
師走にもこんなぐうたら暮らしを余儀なくされているわけです。

それでも、人並みに年賀状だけは何とか頑張りました。
年々、しんどくなってきたことは確かです。
去年までは220枚。 印刷屋さんにお願いしていました。

今年は不況につき、うんと枚数を減らして、100枚にしました。
普段メールのやり取りがある人や最近会ったばかりの人はすべて除外し、
何十年も会っていない人と遠い親戚のみにとどめました。

印刷屋さんに注文する予定だったのが、締切が過ぎてしまったので
仕方なく、30日の午前中、自分で表のデザインと文を考えて、印刷しました。

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私の2009年は、子供のセンター試験で始まりました。そして、
慶應の経済学部と東大文科ニ類の受験を経て、後期の一橋受験。

東大に落ちて、慶應の授業料の最終納付期限の日に、一橋に合格して
受験の幕を閉じたのでした。

同時期に私はアマオケに入団していました。
その頃はバイオリンのレッスンにも意欲を燃やしていました。

でも、春のツアーシーズンで中断し、その後、諸般の事情があって、
アマオケも断念、目下、レッスンもお休み中です。

アマオケをちゃんと続けていたなら、年賀状で自慢したことでしょう。
仕事が、会社が、繁盛していたら、良い話のひとつも書けたでしょう。

1年を振り返ってみて、自分については何も書くことがないのです。
話題は子供のことしかないのか?と情けなくなるほどです。

そこで、仕方なく、母と子の近況を伝える入学式の写真と、
子供のオーケストラの写真で紙面をほぼ埋め尽くしました。

これだけやり終えたら疲れてしまって、昨日の午後はお昼寝となりました。

そして、いよいよ今日は大晦日です。
自分が子供のころは、紅白を見て、ゆく年くる年を見て、
各地の除夜の鐘や新年を迎える風景をブラウン管で味わって、
静かに、感動的に、年を越したものでした。
徹夜で初詣に行った、若かりし頃もありました。

子供が小さい頃には、自分の体験したこの年越しの雰囲気を伝えたくて、
いろいろと努力しました。 特に、おばあちゃんが生きていた頃は、
家族3人で鍋物をつついて、年越し蕎麦を食べて、深大寺に初詣しました。

子連れで、大晦日のジルベスターコンサートに行ってカウントダウン、
その足で明治神宮に初詣した年もあります。

4年前の大晦日には、母子でニューヨークの年越しを経験しました。
先ほどの写真は大晦日。 こちらは年越し後です。
2006年1月1日撮影 ↓↓↓

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今年の年越しはどうなるのでしょう。まだ実感が湧きません。
もしかしたら、家の中の片付けをして過ごすかもしれません。

今年お世話になった方々に心からお礼を申し上げます。
良いお年をお迎えください☆  
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2009年12月19日

荷物のこわさ(4)

Koffer


荷物のこわさに関連して、
もうひとつの経験を思い出しました。

今回も、こわさというよりは、
大変さの思い出です。



やはり、大昔、子供が生まれる前のことですが、
来日オーケストラの随行をしたときの話です。

東北は青森県の弘前から、南西は島根県の松江まで、
全国を股にかけたツアーでした。

このうち、秋田から仙台に移動する日がありました。

Sir ネヴィル・マリナー指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団

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オーケストラの演奏会は平日の場合、大抵、夜公演です。
コンサート終了後、団員たちが着替えや後片付けを済ませて
ホテルの部屋に戻るのは夜の23時ごろです。

翌日の移動スケジュールによりますが、
荷物(スーツケース)を夜のうちにトラックで送り出さないと、
翌日、団員が次のホテルにチェックインするときまでに
荷物が間に合わないことがあります。

そんな日には、彼らはスーツケースを詰め直して
夜中の24時ごろまでに部屋のドア外に出します。
それをポーターさんが集めてロビーに並べます。

フルサイズのオケでは、
演奏者、舞台スタッフ、幹部など、総勢90~100名なので、
限られた人数のポーターさんが数基のエレベーターを使って
荷を降ろすのに1時間以上はかかります。

つまり、全部の荷物がロビーに並ぶころには、
夜中の1時を軽く過ぎているわけです。

それを待ち受けて、私は荷物の数を数えます。
ルーミングリストと照合して、各部屋の個数も記録します。

これ自体は日常茶飯事の業務で、深夜であることを除けば
取り立てて書くほどのことではありません。

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その日の問題は別のところにありました。
それは、翌日のホテルが2つに分かれることです。

つまり、誰がAホテル、誰がBホテルに泊まるかという
目印の赤や黄色のリボンを付けないといけないのです。

これらの作業が終わるのが夜中の2時過ぎです。
それから、玄関前に待たせてあった
スーツケース輸送専門のトラックに積み込みます。

トラックの運転手さんは慣れているし、
仕事がきちんとしているので、何の心配もいりませんが、
それでも、全部積み終わるまで立ち合います。

そしてトラックを見送ると、夜中の2時半。
ようやく自分の部屋に帰って寝られます。

私が寝ている間にトラックは夜間の高速を走ります。

翌日、団員たちが部屋に入ったときには、
そこに正しい荷物がなくてはいけません。

1個でも別のホテルに行ってしまったり、
違う人の荷物がそこあったりしたらいけないのです。

翌日も、仙台でコンサートです。

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休む間もなくホールに向かい、公演の準備に追われるので
荷物のフォローをしている余裕はないのです。
(指揮者 Sir ネヴィル・マリナー氏との打ち合わせに立ち会う)

パーティ会場にて
ピアニストのクリスティアン・ツァハリアス氏(左)、
指揮者の Sir ネヴィル・マリナー氏(右)と一緒に

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≪母、仕事 ⇒ 通訳ガイド・海外添乗 ⇒ 荷物のこわさ 過去の記事≫
荷物のこわさ(1)- 大阪天保山であやうくMIKOの荷物が上海に?!
荷物のこわさ(2)- ニュルンベルクでの失敗、ロマンチック街道で取り戻す!
荷物のこわさ(3)- ウィーンでのコンサート初日、実現なるか?!

  
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2009年12月03日

荷物のこわさ(3)

演奏会用の楽器の輸送でトラブった思い出もあります。

【ウィーンでのコンサート初日、実現なるか?!】

これも、子供が生まれるよりずっと前の話です。
某県のある青少年のブラスバンドを、オランダのケルクラードで開催される、
ユースのための金管オーケストラコンクールに連れて行ったときのことです。

私たち一行は成田から航空会社Aでロンドンに飛び、そこから航空会社Bに乗りかえて
まずは最初の目的地ウィーンに飛ぶことになっていました。
成田では、ティンパニなど大型楽器の木箱を3個積みました。

総勢60名以上、その他に大型楽器の輸送もあるということで、添乗員は2名。
チーフが旅行会社の営業担当者で、サブが私でした。
私が分担した役割は、楽器係、および、現地での通訳と折衝でした。

当時、まだモスクワ回りのロンドン直行便がなかったため、
アラスカのアンカレッジで給油し、そこから北極回りでロンドンに飛びました。

ロンドン着は早朝の6時。少し待って、航空会社Bに乗りかえます。

そのとき、大変なニュースが私の耳に飛び込んできました。

ロンドン経由でウィーンまで、人間と一緒に運ばれることになっていた
ティンパニなどの木箱が3個、ロンドンで降ろされたが最後、接続便に積み込まれず、
ヒースロー空港の一時保管所にあるというのです。

理由は、接続便の機材が小さくて、木箱を積むスペースがないことです。
イニシャルキャリヤである航空会社Aの確認書によれば、次の便に乗せることが、
確約されています。しかし、現実問題として、接続便の容量は小さく、
我々の木箱を乗せると、一般客のスーツケースを積みきれないと言うのです。

そのため、楽器の木箱と私は、一行と共に飛ぶことが出来なくなりました。

さらに悪いことには、このような事態をまったく予測していなかったため、
木箱の鍵を、うっかりチーフが持ったまま先にウィーンに飛んでしまいました。

ヒースロー空港の税関から「木箱を開けなさい」と命令されたときに、鍵がない!

結局、税関職員が鍵の部分を壊して、こじ開けました。そして、中身を確認後、
私の、
「ATAカルネ条約に基づいて輸送中の荷物の一部が、航空会社Aのせいで
他の荷物から離れてしまったのだから、何卒、見逃して!! 演奏会に必要な
大事な楽器なので、後生だから返して!!」
という懸命な願いを聞き入れてくれました。

専門的で難しい話になるので、これについては長くなるのを避けたいのですが、
ひと言で言うと、ATAカルネ条約に基づいて、関税を免除されて輸送する荷物は、
輸出元の国(日本)から、輸出先の国々を経て、日本に再輸入されるまでの間、
ATAカルネリストに記載通りの品目、個数のままでなくてはならないのです。

要するに、途中で立ち寄る国々で、その一部を販売したり、人に贈与したりせずに、
元通りの品目と個数で帰ることを条件に、「関税の支払いを免除しますよ!」という、
国際間の相互協定なのです。

ですから、途中で一部が本体の荷物と分散した形で、ロンドンに残るのは
条約に違反しているのです。このような不測の事態に遭遇するかもしれないことを
予め予期していたならば、木箱の鍵は、楽器係の私が管理すべきでした。

それよりも、もっともっと大変だったのは、次のことです!

木箱を乗せてくれる航空会社を、自力で探さなければならないのです!!

さまざまな航空会社に掛け合ったのですが、軒並み断られ、
私は巨大な木箱3個と一緒に、ロンドンで文字通り立ち往生したのでした。

大切な木箱を置き去りにしたままではトイレにも行けず(泣)、
なるべく我慢して、どうしても行くときは、航空会社の職員に頼んで見てもらい、
飛んで帰ってくると、再び、自分と木箱を乗せてくれる飛行機を探し続けたのです。

朝6時にロンドンに着いてから夕方まで、かれこれ12時間、
木箱と私は、泣きごとひとつ言わずに、じっと耐え忍んで、一緒に過ごしました。

あんまりにも長時間、一緒に過ごしたので、巨大な木箱たちに愛着が湧いてきて、
心細さを慰めてもらいました。

木箱と自分が運命共同体になった日でした。

薄暗くなった頃、ようやく、ルフトハンザが、フランクフルト行きの便に、
私たちを乗せることを承諾してくれました。

こうして、木箱と私はフランクフルトに飛び、私は空港のシェラトンホテルで眠り、
木箱たちは空港で一夜を明かしました。

夜が明けてウィーンに飛ぶ朝、私の気がかりは唯一、大切な木箱でした。
ルフトハンザのスタッフに連れられて、木箱たちに「おはよう」を言いに行き、
無事に木箱がウィーン行きの飛行機に積み込まれるのを確認しました。

こうして、無事、ウィーンに、私と木箱は到着しました。
それから先、木箱を陸路どうやって運んだのか、・・・・・ トラックが迎えに来たのか、
ルフトハンザが最終目的地まで面倒を見てくれたのか、すべて忘れました。

いずれにしても、私のフランクフルトのホテル代を始め、すべての余分な費用は、
イニシャルキャリヤの航空会社Aが責任を取って負担したものと思います。

無事ウィーンに着いた、その夜に、かのウィーン楽友協会の黄金の間で、
演奏会の初日が実現しました。

数日ぶりで木箱から出て、外の空気をたっぷり吸ったティンパニ君などの楽器たちが、
のびのびと大活躍していました。

演奏会が成功裡に終わったのを見届けたときは、役目を無事に果たせて
安堵しましたが、もしも、楽器が間に合っていなかったなら、演奏会の初日は、
緊急で現地調達する楽器で演奏する他なかったでしょう。

そしてその場合には、私も初日の演奏を聞くことはできず、別の空の下で、
木箱たちと一緒に、乗せてくれる飛行機を待っていたことでしょう。

コンクールで金賞に輝いたブラスバンドと全部の楽器を引き連れて、
無事に日本に帰ってきた後、チーフの添乗員と終了報告の会話をしたとき、
「木箱」というキーワードが、やけに懐かしく、愛おしく、響いたのでした。

今年20歳になった子供が生まれるより前の、母の小さな思い出の1コマです。


≪母、仕事 ⇒ 通訳ガイド・海外添乗 ⇒ 荷物のこわさ 過去の記事≫
荷物のこわさ(1)- 大阪天保山であやうくMIKOの荷物が上海に?!
荷物のこわさ(2)- ニュルンベルクでの失敗、ロマンチック街道で取り戻す!  
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2009年11月21日

荷物のこわさ(2)

旅の荷物について、9月30日に
荷物のこわさ(1) 大阪天保山であやうくMIKOの荷物が上海に?!
で体験を書きました。

旅の荷物に関しては、他にもまだ色々な話があるので、ここでいくつか書き留めて
おくことにします。

【ニュルンベルクでの失敗】

若い頃、添乗でドイツのロマンチック街道に幾度となく足を運びました。
そんな毎回似たり寄ったりの、代わり映えのしない旅程のツアーが続く中で、
この苦い失敗は起こりました。

それは、ニュルンベルクを出てローテンブルクに移動する日でした。

朝、バスで出発する前に、お客様のスーツケースがホテルの玄関前に
ずらりと並びました。各部屋から出た個数と合計の個数を数え、お客様にも
その場で確認していただき、ホテルのポーターに、バスに積み込むための
OKの合図を出すのは、添乗員のルーチンの仕事です。

その日も無事個数を確認して、荷物を積んだバスは出発したのでした。

長いこと走って、ローテンブルクのホテルに着いて、バスから荷を降ろすと、
スーツケースが1個足りません。慌ててドライバーに聞くと、ホテルのポーターと
積み込んだときには個数は正しかったと言います。

まさか、途中で落としてきたわけでもあるまいし、これは大変!と、
前のホテルに電話を入れると、1個、ホテルに置き忘れてあると言います。

こんなとき、日本のホテルなら、こちらが問い合わせるまでもなく、向こうが
気を利かせて、「積み残し」荷物について、必ず次のホテルにメッセージを送って
くるところですが、外国ではそこまで親切な人ばかりではありません。

しかし、この件ばかりは、誰のせいにもできない、完全なる自分のミスでした。
ポーターとバスドライバーに積込みを任せていてはいけないのです。
その日に限って、油断して、積込みの現場を監督しなかった私の落度でした。

さて、この荷物をどうやって今日のホテルに運ぶのか?
このホテルには1泊しかせず、翌日はロマンチック街道をずっと南下して、
オーストリアとの国境近くまで行くので、どうあっても今晩中に届けてもらう
必要があるのです。

お客様には当座の必需品を買って差し上げ、お部屋にはお詫びの印として
フルーツバスケットを差し入れました。

一方で、朝発ったホテルには、鉄道を使って輸送を手配してもらえないかと依頼。

ところが、しばらく待って返ってきた答えは、その日はメイデー(5月1日)で
鉄道が全面ストライキに入ってしまったので、輸送は不可能、ストが終わるまで
待てるか?とのこと。

待てる訳がありません。それまでにはまだ丸2日あります。
そんなに長い間、お客様を待たせる訳にはいかないのです。

そこで、最終手段として、タクシーを飛ばすしかなくなりました。
ああ、待っている時間の長いこと、長いこと!

夜遅くに、スーツケースを1個乗せたタクシーが、ローテンブルクに着きました。
高額のタクシー代とチップを支払って、無事、荷物をお客様のお部屋に届け、
やれやれして、へなへなっと崩れるように、ベッドに横たわったのでした。

そのタクシー代を自腹で払ったのか、旅行会社で精算してもらったのか、
あまりにも遠い昔の話ゆえ、忘れました。

自腹で払ったなら自分の落度が返す返すも悔しいし、旅行経費にしたなら、
始末書の一枚も書かされたことでしょう。・・・・・ 何故か、記憶がありません。

しかし、このとき学んだ教訓だけは忘れません。

仕事に慣れてきたときこそ、要注意!
ちょっとした気の緩みからくる油断が、大失敗に!
初心忘れるべからず!


荷物だけは、とにもかくにも、ダブルチェック、トリプルチェックを怠らず、
人任せにせず、自分のこの目で、きちんと最終確認をすることが大切です。  
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2009年11月02日

すべては子育てのため

早朝から夜遅くまでびっしり詰まったプログラムで、猛スピードで日本列島を駆け抜けた
グループが、大満足の様子で、関西空港から故郷へと帰っていきました。

我を忘れて、全身全霊で尽くした、嵐のような8日間が過ぎた後、残るのは空虚。
充実していたからこそ、目の前に突然何もなくなったときの寂しさは何とも言えません。

皆さんに満足していただいて、心付けもいただいて、嬉しい気持ちの反面、
ぐったりと、倦怠感に包まれて、関空から一路、家に戻ってきました。

気分転換をはかるためにと出かけた美容院では、ほんの短いシャンプーの間でさえ、
大好きな肩もみの間ですら、うつら、うつら・・・・・。
せっかく美容師さんが出してくださった熱いお茶も、気がつくと冷めていました。
美容院から帰ると、即、お布団を敷いて、寝ました。

深夜に子供が部活から帰ってきたのを、ぼんやりと夢うつつの状態で出迎え、
次に意識が戻ったときには、朝の9時でした。
留守中の書留や宅急便が、午前中に再配達されるのを、じっと待っています。

そして、今日の午後は、「一橋祭」をちょっとのぞいてくる予定です!
ずっと、当然のごとく、「ヒトツバシ」祭だと思っていたら、「イッキョウ」祭と読むそうです。

春の「小平祭」が新一年生のために行われるのに対して、
秋の「一橋祭」は二年生以上が中心となるのだそうです。

それはともかくとして、今朝、6日?ぶりで子供に会うと、開口一番

「教科書代とか、歯の矯正とか、留守中の食費とか、ものすごいことになっているよ!」

ああ、必死で働いてきたのに、すぐに子供の学費や生活費でお金が消えていくー!

もっとも、元をたどれば、子供を育てるために働いているのでした。
だから、働いたお金を使える子供がいることは幸せです。

幼児のときの公文式だって、今もずっとお稽古しているバイオリンとピアノだって、
中学受験だって、みんな、みんな、母の一存で、やらせたくて、やってほしくて、
進んでお金を投資してきたのでした。

それがあったからこそ、これまで、あれやこれやの仕事を渡り歩きながら、
働いてこられたのだと思います。

自分ひとりだけのために働いているとしたら、虚し過ぎ!
子供がいて、良かった!
  
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2009年09月30日

荷物のこわさ(1)

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これは一体何の光景でしょう。

横浜港大桟橋での荷物(スーツケース)積込み風景です。
その日、成田空港に到着した35名の団体を出迎えて、横浜港大桟橋に停泊中の豪華クルーズ船まで連れていきました。
人間は貸切バスで、スーツケース48個は貸切の2トントラックで運びます。

バスよりも、やや遅れてトラックが大桟橋に到着しました。
大勢の若い作業員が、「待ってました!」とばかりに、一斉にトラック(右)から荷物を積み下ろし、流れ作業で、船(左)側に渡します。

これら一連の作業が滞りなく終わるのを見届けて、私の仕事は終わりました。

これで、万一、荷物を一個、成田に忘れてきたとか、個数を数え間違えていたとかいうトラブルがあったら、後始末のために、ずっと桟橋に居残ることになったことでしょう。

その日は、前夜から体調が悪く、当日も寒気や冷や汗が出て、頭が割れそうで、吐き気のする中、友人の勧めにより、熱いお湯や水分を十分に取って、ちゃんと薬を飲んでから、成田に出かけたのでした。

無事、何の問題も起こらず、多少のチップもいただいて、大桟橋を歩いて戻る途中、右手に見えた、「みなとみらい」の夜景が綺麗でした。

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旅行業界で働いていると、荷物は常に気をつかうところです。

去年、大阪港の天保山でこんなことがありました!

その日は、とてもフレンドリーなアメリカ人のご夫妻と、東京から大阪まで観光をやりながら、新幹線で移動してきたのです。そして、新大阪に待たせてあったハイヤーに乗って、天保山に到着しました。

このご夫妻は、大阪港より、豪華クルーズ船に乗船することになっていたのです。

ハイヤーが天保山に到着するやいなや、船側のポーターが一斉に出てきて、またたく間に、ハイヤーにあった荷物を積み下ろし、コンベヤーベルトで船に流します。

私は、ご夫婦と話していて、荷物が流される瞬間を見ていませんでした。

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無事、仕事が終わり、ご夫婦から、100ドルものチップと、前日に三越で買われたクッキーの詰め合わせと、果物ゼリーの詰め合わせのプレゼントをいただき、喜び勇んで、お別れの記念写真に収まりました。

そして、抱き合って別れを惜しみ、ご夫婦が船の中に消えていって見えなくなるまで見送った後、私は、埠頭を背にして、地下鉄駅へと歩き始めたのでした。

しばらく歩いた後、両手はいただいたプレゼントの紙袋でいっぱい、そして、仕事のショルダーバッグもあります。ところが、何かが不足しています。


あれ?っと思ったところが、何と、自分の旅行カバンまでが、どうやら、ハイヤーから船へと積み込まれていたようなのです!

これには慌てました。
船が大阪港を出航するのは、もうまもなくです。行き先は、上海です!

ああ、私の、旅行カバン!!
上海まで行っちゃう!! どうしよう!!

大パニックして、船側のスタッフに事情を話しました。
すると、中に入って、自分の荷物を探すには、パスポートが必要と言われます。

というのも、クルーズ船の中は、既に、国外だからです。

本来はパスポートを見せて、手続しなければいけないところ、特例として、写真入りのガイド免許証を見せて、入れてもらいました。

そして、船内で、ポーターたち(皆、東南アジア系の人々です)に向かって、「私の荷物!私の荷物!」と叫びながら、荷物の色や形を説明して、探してもらいました。

アジアの人たちは、陽気で気さくです。

"Ok, ok, don't worry!" と、呑気な口調で言うのですが、実際にはとても親切に対応してくれます。

途中で、「中にパソコンが入っていないか?」と聞かれ、「その通り!」と答えると、X線を通した際に、パソコンの影が映った荷物があって、安全のため、別の場所に保管してあるとのことです。

こうして、私が無事、自分の荷物と対面し、船を降り、不思議な感動に包まれて、新幹線を目指していた、その頃、船も、何ごともなかったように、上海へ向けて洋上を滑り出していたことでしょう。

荷物のこわさについては、まだ色々なことがあるのです。
でも、またの機会に回します。  
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2009年06月25日

親の仕事と子の生活

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那覇の仕事が終わり、仲間達と乾杯
郷土料理の数々に舌鼓を打ちました。

伊語、仏語、西語、英語、独語のガイドが
語学の別なく和気藹々と語り合えるのは
クルーズならではのお楽しみです

普段はみな一匹狼で仕事をしているので、
こんな機会に人脈を広げ情報交換します。

那覇では着岸と同時に、救急車で病院に
運ばれた重病人の乗客がいました。

通訳として病院に行ったガイドもいます。
気の毒に、彼女は飲み会に参加できず、
私たちばっかり楽しんでごめんなさい!

那覇の後、神戸に飛んできました。

明日は、神戸、大阪、奈良、京都の各コース
に分かれてバス40台以上が繰り出します。


今日、機内で読んだ日経によると、昨年の訪日観光客の数は605万人。
このうち、中国人が46万人です(実際にはもっと多いような印象を受けますが)。

国土交通省の外郭団体であるJNTO国際観光振興機構(日本政府観光局)による
"VISIT JAPAN CAMPAIGN"により、着実に客足が伸びていると期待したいところ
ですが、金融危機や新型インフルエンザなどの影響をもろに受けやすい業界です。

円高のため、私も4月はおいしいツアーが2本キャンセルになってしまいました。
5月もかつて経験したことのない暇なシーズンとなりました。

リーマン・ショック以来の社会情勢を受けて、私達に支払われる報酬や日当の条件も
4月から軒並み下がりました。

毎年、難関の国家試験に合格した人たちが敢えてこの仕事を選ばず、
履歴書に箔をつけるだけで、手堅い仕事(サラリーマン、教師、公務員など)を
決して辞めないのは、このような不安定な身分と条件が改善されないからです。

それでも、この仕事を選んだ仲間たちには悲壮な雰囲気は少しもありません。
みんな明るくて楽しくて笑顔が絶えません。

  

親がこんな仕事で留守している間、子供が遅刻せずに大学に行っているのか、
確かめようがありません。

「起きた?授業は?」とメールしても、
返ってくるのは、だいぶ後になってから、せいぜい「うん」の二文字だけ。
大抵は無視です。
うるさい母親のメールなんて、どうせ片っ端から削除しているのでしょう。

親元離れて生活するお子さんを心配される親御さんの気持ちがよく分かります。

このところ子供は間近に控えた定演のために、毎晩練習に通っているようです。

オケには音楽に熱中するあまり留年する学生もいるそうなので、
「もしそんなことになったら、次の年から授業料を払ってやらないし、
音楽もやめさせるからね!転落人生の始まりだよ!」と釘を刺しておきました。

本人は自分の専門分野に大変関心があり、参考書や問題集まで買ってきて
手をつけているようだし、受験でやり残した英語の参考書も電車の中で見ている
ようなので、信ずるしかありません。
  
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2009年05月23日

通訳?と物作りの感動

前にも書いたかもしれませんが、
私は「通訳ガイド」という職業名が嫌いです。
国家資格としての正式な名称は「通訳案内士」(元、通訳案内業)ですが、
これも気に入りません。

というのは、私たちの仕事は「ガイド/添乗員」だからです。
仕事の内容からしても、方法論の点から見ても、「通訳」とはまったく異質の仕事で、
両者の間に共通点はほとんどないと言って差し支えありません。

ですから、何故こんな名前がついたのか意味不明です。

工場訪問時の質疑応答やレセプションの席上で通訳を頼まれることが
まったく無いとは言いませんが、それは本来の仕事ではありません。

工場では、営業担当者も技術者も、皆さん英語がお上手ですから、
私の出る幕はあまりないのです。私の役目はもっぱら「羊飼いの犬」のように
団体が見学コースからはみ出さないよう後ろからついて見張ることくらいです。

私たちが本領を発揮するのは、旅行業においてです。
旅程の管理、そのために必要な各種手配の確認、交渉、下調べ、
観光名所の案内と、歴史、地理、社会、日本事情の説明を主な仕事とします。

「通訳」 → 人と人の話の受け渡し。自身のアピールは禁止。あくまでも黒子。
「ガイド」 → 自分の言葉、自分の裁量で、旅を演出できる。個性を出せる。

FujiView
今回は富士山麓に宿泊したので、
五合目や富士五湖に行ってきました。
(この写真は別のときのもの)



横浜見物もしました。
みなとみらい、中華街、三渓園などです。

三渓園とは、19世紀末に横浜港からアメリカ向けの生糸貿易で財をなした実業家
原三渓が作った庭園です。
三渓が紀州、京都、鎌倉、飛騨などから集めて移築した重要な建築物や、
三渓が保護支援した横山大観、下村観山ら日本画家の作品が見られます。

Sankeien2

横浜 三渓園

紀州徳川家の
数奇屋風書院造りの別荘








今回の工場訪問では、私のグループと時を同じくして、中国からの大型団体も
来ていました。中国ビジネスがますます重要になってきている証拠です。

ところで、ロボットが2台、チームワーク良く仕事に精を出す姿には見とれました。

素材を渡すロボット君、それを受け取った別のロボット君は手の平を器用に返して
素材の向きを変えながら面とすべての辺を加工。そしてそれを元のロボットに返す。
受け取った元のロボットは、それを傷つけないように、そーっと、ゆっくり、慎重に、
別の場所に降ろし、再び新しい素材を差し出す・・・。

こんなことを延々と繰り返すのですが、機械の秘密がよく分からない
門外漢の私は、ただただ感心するばかりです。


同社の機械を使って、某工業専門学校の生徒さんたちが作った
素晴らしい作品が展示されていました。

Riesenrad


その名も

「観覧車」


















工業を勉強する人を私は尊敬してしまいます。
物を作れる人はすごいです。
私は物を使うだけなのに、それすら使いこなせないでいます。

物を作るという意味では、お百姓さんも尊敬します。
私はお米も野菜も作れません。
その上、自慢じゃないけれど、花を買ってきても、
あっという間に枯らしてしまいます(泣)
  
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2009年05月21日

技術革新

先週の日曜日からツアーに出ています。
今回は某工作機械メーカーのインセンティブ(報奨)旅行です。

同社のインセンティブツアーは息子が生まれる前に2回、
仕事復帰後に5回と、今回で7回目になります。

幸運なことに毎回指名をいただいており、おかげでこんな不況で
キャンセル続出の今春も何とかまた仕事させていただいています。

今回のお客様はドイツ人を中心に、オランダ人とブルガリア人です。

工作機械とはその名の通り、機械を作るための機械です。
自動車、冷蔵庫、テレビ、エアコンのような一般大衆消費財とは違うので
工作機械メーカーは一般には知名度がありません。

しかし、それらの消費財を作るためには、工作機械が不可欠です。
そしてその分野において日本は世界市場をリードしているのです。

そういうわけで、日本の工作機械を導入して別の機械やパーツを製造している
海外の工場経営者が日本に招待されて、私にも仕事が回ってくるのです。

まずはいつものように同社の工作機械を作っている工場を見学しました。

工作機械を作るためにも別の工作機械が必要なのです。
そこには自社だけでなく他社の工作機械も並んでいます。

工作機械を作るための工作機械?
では、その工作機械はどの工作機械で作るのか?

すると卵が先か、鶏が先かの話になり、
ずっとさかのぼっていくと産業革命前夜に行き着きます。

きっと最初はごく簡単な道具を使って、手動で切り刻んだり
溶接したり、塗装したりしていたのでしょう。

そしてそうやって出来上がった最初の機械を使って
次の機械を作ったのでしょう。

技術革新。
このスピードにはまったく驚かされます。

同じ会社の製品ですら、20数年前と今では隔世の感があります。

切断も穴あけもすべてオートメーション。
顧客の製品仕様をコンピューターに入力すると、その通りに
寸分違わず穴があき、切断され、加工されていきます。

レーザー光線がこれらの離れ業をいともたやすくこなしていきます。

溶接には溶接ロボットが大活躍しています。

見ていて飽きません。

60年代前半の日本製品は、自動車にしても家庭電化製品にしても
まだまだ世界には進出していませんでした。

東京オリンピックを経て、60年代の後半からです。
自動車やカメラを皮切りに日本製品が一般大衆向けの世界市場で
認知され出したのは・・・。

ある方から聞いた話によると、
現在でも工業高校などでは、板金とのこぎりを渡されて、
指示通の形を切り取り、穴をあけるといった手作業が課されるそうです。

技術革新の原点に戻って理解を深めるため、初心に帰れということですね。

工業系とは180度違った道を歩んでいる私たち親子ですが、
現在、様々な技術革新の恩恵を受けて暮らす背景には
このように積み重ねられた努力があるのだとなあと感じました。

ツアーはこれから同社の製品ラインナップを紹介する展示場と本社工場、
そして近隣の名所観光へと続きます。
  
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2009年04月29日

保育園つぼみ組

子供が生まれて数ヶ月した頃、ガイドの仕事を再開しました。

数日間だけでも子供と離れることで母乳が出なくなるのが怖かったので、
旅先の京都の柊屋旅館では搾乳器で少ない母乳をしぼって捨てました。
ああ、もったいない、これを子供に飲ませることができたならと、
京都に来ている自分を恨みました。

またある日、某有名化粧品メーカーの仕事で単独、新幹線に乗ったとき、
たばこの煙に異常に神経質になっていた私は、喫煙車両に乗っている
化粧品メーカーの担当者のところに事前に挨拶をしに行かなかったとして、
即刻クレームを受け、夜、旅行会社の営業担当者からお叱りの電話をもらい、
もう少しで仕事からおろされるところでした。

この頃は、仕事より子供の方が大事になっていたので、
家に残してきた子供を思うと不憫で、仕事に身が入らなかったのです。

  
秋になり、市役所から保健婦さんが家庭訪問に来ました。
保育園入所を勧めるためです。

私が、「おばあちゃんが見てくれるから大丈夫です」と答えると、

保健婦さんは、
「これからどんどん大きくなって活発に動き回る子供を見るのは、
おばあちゃんの体力では後々大変になってきますよ。」
と言って、保育園入所を強く勧めました。

そして、最寄の保育園に入るにあたっては、ゼロ歳児の定員は3名なので、
競争率がきわめて高く、よほどの条件を満たしていないと入れないと説明しました。

その難関を突破するには、まず毎日の決まった定職を持つこと、
ガイドのようなフリーの季節業では、選考の対象にならないとのことでした。

これまでずっとやってきてライフワークだと信じていた通訳ガイドを辞めるなど
にわかには信じがたいことでした。

でも、保健婦さんは真剣に説得を続けます。
「ハローワークに行って、定職を見つけなさい。そうすれば来年の4月1日に
ゼロ歳児として受け入れてもらえる可能性がありますよ。」

こうして、いきなり予期せぬ方向に事が進んでいきました。

ハローワークなんてカッコいい名前に変えてるけど、所詮は職安でしょと、
昔の公共職業安定所の暗いイメージ、日雇い労働者が列を作って仕事を
求めているイメージの抜けきらなかった私は、ちょっとためらいました。

しかし、実際に行ってみると、新しい名称の通り明るい雰囲気でした。
いくつかの書類に履歴、職歴や希望の職種などを書き込み、さっそく
某有名メーカーの非常勤社員の職を紹介されました。

井の頭線沿線にあるその会社に行き、社長と取締役の面接を受けて、
その場で採用となりました。
海外の資本が入るため、緊急に語学で即戦力となる人材が必要だったのです。
私の仕事はもっぱら、社長と取締役の助手として、海外向け手紙の作成や
稟議書やレポート類、社長インタビューの英訳をすることでした。

  
この会社に採用されたことで、保育園入所審査にも通り、晴れて、
定員3名のゼロ歳児「つぼみ組」に4月から入れていただくことになりました。

朝は私が保育園に送り届け、夕方6時に母が迎えに行くということで
保育園生活が始まりました。

入ってみると、園長先生や保母の先生たちのきめ細やかなお世話と、
子供たちの間の横や縦のつながり、保護者の連携、夏祭り、運動会、芋掘り、
保育観察、ピクニック、懇親会、保護者の勉強会など、楽しいことだらけで、
ここで肉親以外の多数の人間と交わることで、子供は社会性を育みました。

人見知りをせず、いつもニコニコ顔。他の子が何かをやっていると、
いつも嬉しそうに応援するように見守っている子でした。

最初の保育観察では、親が見に来たことを気づかれると、ありのままの様子が
観察できないからという理由で、スカーフをかぶったり、サングラスをかけたりして、
変装して、後をついていきました。

不自然な格好をした大人たちを不審に思ったように見えた赤ちゃんたちも、
じきにそのことを忘れて、普段の無邪気な姿で手押し車を押されていきました。

入所したての頃は、保育園の階段をハイハイでするするっと滑り下りていた我が子も、
誕生日を過ぎてしばらくすると歩き始め、秋の運動会ではおむつをあてたブルマーから
むちむちの太ももを見せて元気に駆けっこしました。

  
あのとき、市役所から保健婦さんが来て説得してくれなかったら、
きっと保育園のことなど考えなかったし、私はフリーのガイドをやり続け、
おばあちゃんは育児でくたくたに疲れ、どうしようもない日を迎えることに
なったに違いありません。

保健婦さんのあの説得には、いくら感謝してもしきれません。
保育園の素晴しさを知ったこと、大勢の他人に一緒に育てていただいたこと、
これは私と子供にとって、何にも代え難い宝物です。

そして、ガイドを辞めるときには、おそらく二度と再びこの仕事には戻れないと
淋しく思いましたが、代わりに、勤務先のメーカーで素晴しい人たちに出会え、
やり甲斐のある仕事をさせていただいたことは良い思い出になりました。

後にこの会社から正社員へのお誘いがありましたが、そのときには
外資系の会社の正社員の職を見つけた後だったので、丁寧にお断りしました。
何とか残ってもらえないかと、私には勿体無いほどの年収を提案されましたが
お受けできなくて残念でした。

こうして、ゼロ歳児つぼみ組の一年間が過ぎていきました。
  
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2009年04月22日

受験に年齢は関係ない

10日間のツアーから戻ると、再び書類の山に囲まれることになりました。
とにかく家にはものが溢れ過ぎなのです。
本当はものをあまり持たず、すっきりとシンプルに過ごしたい性質なのに、
現実はまったく逆です。

子供の本、プリント、お知らせ、小学校以来未整理の写真、
私の参考書、問題集、プリント、未開封の郵便、年賀状、請求書、
日本全国のガイド資料、
会社の注文書、請求書、支払書類、税務書類、
新書、文庫本、楽譜、雑誌、語学CD、新聞など・・・

多種多様で行き場所がすぐに見つからないものがそこら中にあります。

ガイド資料用には透明のFitsケースを何段も購入してあり、
その中に、地域別にA4の封筒に入れて並べるようにしたのですが
ツアーが続くとそのうちに資料がごちゃごちゃに混ざり合ってしまいます。
今回も長崎の資料が見つからず大パニックの果てにようやく見つけました。

本や書類の整理術に長けている人がいれば、
項目別に収納のコツを教えていただきたいものです。



やっと家に帰ったのだから、片付けばかりに時間を取られていないで、
すぐにでも好きなことを始めたいという気持ちでいっぱいです。

今年は東進衛星予備校で、地理Bと世界史B「冬期講習:現代史」を
申し込みました。
ところが、今日、長崎から飛んで帰るとき、とても晴れていたので
九州と四国の地形がくっきりはっきりとよく見えたのです。
そこで、いよいよもって地形への憧れが増してきて、
今年こそは地学も受講したいという気持ちを隠せません。

首都大学の都市教養学部に地理と地学がかぶったような学科があり、
そこで学ぶと3年次から自然・文化ツーリズムコースに進級できます。
私ってもしかしたらそこを受験したいかも?と思って調べてみると、理系でした。
物理と化学と数ⅢCが受験科目にあるようです。

私は、日本の地理/地学、もしくは、日本と大陸(朝鮮、中国)の交流史、
あるいは日本の近現代史などを大学で勉強したいのですが、
息子はそれよりも即、世の中のために役立つことを勉強したら?と言います。

つまり、国際政治経済などを勉強して、語学力を活かして、
国際平和に役立つ仕事を見つけるのがいいと言うのです。

私がやっているガイドも国際平和にほんの少しは貢献していると思うのですが、
そんな一部の裕福な旅行客相手ではなく、本当に困っている人たちのためになる
仕事を探せということなのです。

こんな年とったオバサン相手に、そんな果てしない夢のようなことを
本気で(!)言ってくれる息子には、驚くと同時に感心します。

また、あるとき、こんなことも言いました。
(私が一年以上前に志した数1Aをいまだに終了できない姿を見て)

理数系がそんなに苦手なら、いっそ、社会科系の科目を全部、
完璧(!)にしたら?

要するに、日本史、世界史、地理、政治経済などを、
東大の二次の論述レベル(!)まで持っていけということです。

こんなオバサンにも某かの希望を持たせてくれる息子には感謝します。



40前で大学受験めざして予備校に入学した人のブログ「オバサン受験生☆★
来年、桜が咲くといいな」
を見つけました。

44才で東大を目指す人のブログ「44才・喫茶店主の東大挑戦記(目下停戦中)」
もあります。

また、東大生と受験生の母である受験の女王様クイーンさんが、
30代で旧大検から今年東大に入学した人のブログ「三十オヤジの東大キャンパス日記」
を教えてくださいました。

こうして私は53歳で、また東大生になったまた、勤務医の身で、
少し前に53歳で再び3度目の東大入学を果たした人もいます。

これがその人の書いた本です。
こうして私は53歳で、また東大生になった

実は、この本は店頭で偶然見つけて面白そうなので買って読んだところ、
後になって、息子の後輩のお母さんの知り合いだということがわかりました。

そう言う後輩のお母さん自身も、50代で女子大に入学し
(在学中は娘くらいの年齢の学生と体育の授業も楽しんだそうです)、
卒業後はその専門分野を活かして就職活動の末、昨年無事就職しました。

二昔前の音楽界を知る人ならきっと覚えている小椋佳さんも、
第一勧業銀行のサラリーマンをやりながらの歌手活動の傍ら、再び東大に戻って
法律を勉強し直したり東大の文学部哲学科に進まれたりしています。

芸人学生、僕が学びつづける理由宮崎県知事のそのまんま東さんも、
仕事の傍ら、早稲田大学の第二文学部と政治経済学部で
勉強を続けられました。
その体験をこんな本にまとめています。
芸人学生 僕が学びつづける理由


最近のYahoo News(配信;産経新聞)には、阪神・淡路大震災で娘さんを
亡くされたお母さんが二胡を通じて中国と交流の末、正式に勉強をしようと思い立ち、
受験勉強を経て、56才でこの春、神戸外国語大学の中国学科に入学されたという
記事がありました。

私はニュージーランドに住んでいたとき、オークランド大学
正式な手続きを踏んだ聴講生としてドイツ語学科の授業を取っていました。
そのときクラスメートのうち5~6人は中高年だったように思います。

中国には老人大学さえあると噂に聞いたことがあります。

その気になりさえすれば、そのときがスタートだと思います。

大学とは18、19の若者が行く場所だと一般的に思われているのは
日本独特の傾向なのでしょうか。
  
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2009年04月12日

仕事、音楽、仕事

旅の仕事は春と秋が忙しくなります。一年中で一番の稼ぎ時です。
でも、今年は円高の影響で、4月に受けていたツアーが2本いっぺんに
キャンセルとなりました。
旅の仕事だけで食べている人はキャンセルされると大幅な減収となるので
大変です。若い頃の私がそうでした。

今の私には自分の会社があるので、薄給ながらも定収入があり、
ツアーがキャンセルになっても慌てません。
それどころか、体が少し楽になると言って喜んでいます。

旅の仕事と会社経営。
この2つの仕事の他にも、昔とった杵柄で音楽事務所の海外演奏家招聘業務も
手伝っているので、私は一年中大忙しです。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

その合間を縫って、このほど久しぶりにバイオリンのレッスンと室内楽に
行ってきました。

レッスンでは、スズキの4巻から、
ヴィヴァルディ 協奏曲イ短調の第1+3楽章
J.S. バッハ   ドッペル(二つのバイオリンのための協奏曲)第1楽章(セカンド)
を見ていただいています。

私の先生(息子の先生でもありますが)は、
スズキメソードのすべての先生がそうであるように、
一応弾けるようになった曲でもすぐには〇をくれません。

次の曲、そのまた次の曲に進んでも、2曲か3曲前の曲を平行してやります。
それどころか、しばらくしてだいぶ進んだところで、また古い曲を順番に
引っ張り出してきて、今度はピアノ伴奏テープに合わせて弾けるようになるまで
徹底的にやらされます。

そんなわけで、私はピアノ合わせの曲も含めると、大抵、5~6曲を常に
課題としてかかえている計算になります。

漆塗り方式とでもいいましょうか、同じことを何度でも繰り返しやり、
ある程度進んでからも常に古いところに戻って、より完成度の高いものにするという
ひと手間を忘れないのです。

自分の語学学習においてもこれと同じことをやっていました。
とにかく徹底して反復するのです。
ある本で読んだことですが、音読は50回繰り返すと「質」が変わるそうです。

語学、音楽、算数、やることは違ってもこの原理は共通しているように思います。

息子がバイオリンを勉強する上で、私はこの方法を信頼し
徹底して実行してきました。効果は言わずもがなです。

ところが、いざ自分自身のこととなると、いくら繰り返したとしても、
上手くなれるとはにわかには信じがたい・・・。
やはり、年齢のせいでしょう。弦楽器は小さいときに始めるのが一番です。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

11日(土)の朝は室内楽のアンサンブルに行ってきました。
こちらも2ヶ月ぶりです。
ちょっと顔を出さないうちに、また新しいメンバーが増えていました。

このアンサンブル、平均年齢は50代でしょうか。
とにかく、おばさん、おじさんばかりなのです。
よって、私には居心地が良く、続けていけそうな気がします。

中には国立大学の教授をやっているすごい学者先生もいますが、
そんな彼女もこのアンサンブルでは皆と同じくヴァイオリンを奏でる
ひとりのオバサンです。

専業主婦も、現役サラリーマンも、年金暮らしのオジサンも、教授も、
皆、分け隔てなく演奏に参加し、練習が終わった後は皆でランチを囲んで
四方山話をします。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

11日(土)の夜は、錦糸町のすみだトリフォニーまで
一橋大学管弦楽団のスプリングコンサートを聞きに行きました。

肝心の息子は行く行くと言っておきながら、頭が痛くて布団の中。

私一人で、はるばると聞きに行ったコンサートはなかなか立派なものでした。
一橋大学生を主体として、津田塾、東京女子大、東京学芸大学の学生も加わる
インカレのオーケストラです。

プログラムは、
シュトラウス    喜歌劇「こうもり」序曲
メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」
メンデルスゾーン  交響曲「宗教改革」
  
メンデルスゾーンがユダヤ人で、プロテスタントに改宗していたということを
プログラム解説を読んで初めて知りました。
メンデルスゾーンが尊敬するバッハの対位法の影響がところどころにうかがえる
交響曲で、私は生まれて初めて聞きました。

アンコールはルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」。

去年からあちこちの演奏会でルロイ・アンダーソンの曲を耳にします。
それもそのはず、2008年はアンダーソン生誕100周年でした。
ボストン生まれ、ハーバード大学卒の作曲家。

ボストン・ポップス・オーケストラの定番のような20世紀アメリカ音楽は、
ヨーロッパの古典ばかり聞き慣れた耳には、新鮮で心地よく響きます。

4年前のクリスマスに息子と旅したボストンで聴いた本場のボストン・ポップスを
懐かしく思い出しました。(あの日のメインはサウンド・オブ・ミュージックでしたが)

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

一夜明けて今日12日(日)の午後は息子のヴァイオリン演奏会でした。
息子は、昨晩の頭痛もどこかへ吹っ飛び、朝から元気にリハーサルに
出かけていきました。

今回の演奏曲は、フランスの作曲家ショーソンの「詩曲」(ポエム)。

解釈も演奏技術も難しい難曲です。
この曲に決めたのが昨年の秋。それから12月まで練習していました。

1月からは受験に専念し、国立後期が終わって再開しようとしたところ、
左手首が不調で(痛くて)、練習どころではありませんでした。

病院で見てもらい、毎日湿布を取り替えたり、とにかく大事にして、
ようやく4月からまた練習を始めました。
そのため、練習不足を心配していましたが、案ずるより産むがやすし。
なかなかの出来栄えでした(親馬鹿)。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

さあ、あと12時間後には沖縄に飛びます!
ですが、実は憂鬱な気持ちなのです。
沖縄でどこを担当するかが明日の夜の打合せまでわからないからです。
クルーズの仕事は大抵いつもそうなのです。

首里城なら3回行ったことがあるのですが、それ以外のところが当たったら
ろくに下見も出来ないまま、ぶっつけ本番です。

以前に、クルーズの仕事で青森と函館を下見なしでやったことがありますが、
そのときは、必要だと思われるありとあらゆる資料をインターネットから
ダウンロードして持っていきました。

青森の三内丸山縄文遺跡のときは30ページほど印刷して持っていき、
ホテルの部屋で深夜まで頑張っても読み終わらず、まして覚えられず、
清水の舞台から飛び降りるつもりで本番を迎えましたから。

あんなストレスは、もうあまりかかえたくありません。

なのに、こともあろうに、水曜日に沖縄から東京に戻るはずだったのに、
今晩電話が入り、沖縄から神戸に飛んで、関西でもう一仕事やることになったのです。

関西の後、東京に戻ると東京地区で3日間で仕事が続き、
その次の日は長崎行きです。

仕事とはいえ、ほんとうに辛いの一言です。

旅の仕事だけならいいのですが、私には会社の仕事もありますから、
両立するのは、ツアーの繁忙期には、並大抵なことではないのです。

でも、両方やってなんぼ。それでやっとご飯が食べられ、息子を大学に
やってやれるし、自分の趣味や勉強もできる、というわけですから、
弱音は吐けません。

でも、実際には、弱音、泣き言ばかり繰り返しています。
とにかく体がついていかない、年をとった、無理はできない、忙し過ぎ、
考え始めると泣きそうになります。

息子からは、まだまだ現役で働いてもらわないと困ると言われます。
ああ、好きな仕事をやりたいときだけやって、後は遊んで暮らせたら
どんなにいいだろうと言う私に、息子は「我侭だ」と決め付けます。

しょうがない!明朝起きたら、旅行カバンを詰めよう。
そして、とにかく行ってこよう。何らかの収穫はあるに違いないから。

でも、今回のクルーズ船が長崎港を離れたら、
ほんとうに自分の受験勉強を再開したい!

高校生の勉強をただやみくもにやっているわけではないのです。
いつか、本当にまた大学に入りたいという夢があります。

そして、一刻も早く思う存分バイオリンを練習したい!
アマオケや学生オケでばりばりと弾ける日を夢見ているのです。
  
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2009年03月05日

週末起業、その2

子供がまだ中学生なのに失業してしまった私。

やっとの思いで見つけた新しい会社では、
大企業へ営業回りしてプレゼンを繰り返すも一向に業績につながらず。
いや、それ以前に、担当者とのアポがなかなか取れない。
社長の期待がずっしりと重く肩にのしかかります。

働けど働けどわが暮らし楽にならざり、じっと手を見る(石川啄木)
まさにこの心境でした。

こうして、生きるために、子供の教育費を捻出するために、
ある日いきなり「週末起業」に飛び込んだMIKOです。

「週末起業」の著者の藤井氏は、
「副業ではなく、起業!」と強調します。

意味するところは、
「起業」という言葉に「本気の度合いの違い」が現れるということです。


ドメインも取得し、ホームページのレイアウトをデザインしたりして、
さあ何を始めるか考えます。

そんなとき、失業時代、「中高年のための再就職セミナー」で
講師が言っていたことを思い出しました。

「自分に出来ることを何でもいいから棚卸しして書き出してみなさい。
自分ではこんなこと人の役には立たないと思っていても、
それを必要としている人が世の中にいるかもしれない。
だから、それを探すのです。」

そこで、自分に出来ることを書き出して毎日眺め、
どこかの誰かがこのうちのどれかを必要としていないかなあ?と考えました。

そして、ついに思いついたのです、あるアイデアを!!

早速、実現するために必要なわずかな投資(6万円)で準備を整え、
ホームページも完成。

もっとも最初のホームページを見た息子は、
「こんなへなちょこページ見てやってくるお客さんなんかいないよ、
何かあやしい。ださい。」

それでも、一ヶ月もすると、最初のお客様が現れたのです。
お客様第一号!!
これには息子もびっくりでした。「まさか!あり得ないこと!」と。

こうして、3ヶ月ほどで順調にお客様を増やした頃、
いっそ個人事業ではなく法人化しようと思い立ちました。
米粒ほどもない小さな小さな有限会社の誕生。5年前のことでした。

法人となれば、私も取締役として自分の会社から給料をもらうことになります。
初任給、78,000円。
半年ほど様子を見てから昇給。98,000円。

相変わらず、「週末起業」の枠内です。
つまり、昼間は別の会社でフルタイムの正社員。
そして、夜と週末は自分の会社を経営するのです。

両方の会社の給料を合わせると、何とか暮らしていける額です!

ところが、「週末起業」が軌道に乗ってきた頃、
私の疲労とストレスは限界まで来ていました。
そこで、昼間の会社を辞めても食べていける方法はないかと思案しました。

その結果、昔やっていた通訳ガイドへの復帰を思いつきました。
そうだ、私にはこの道がある。昔とったドイツ語と英語のガイド免許を活かせる!

子供が生まれるまでずっとやっていた仕事。
子供が生まれなければ、きっと死ぬまでやっていたかもしれない仕事です。

子供が生まれたときに、

「泊りがけの仕事はしたくない。毎晩家に帰って子供を育てたい。
だから、長年やったライフワークを捨てよう。子供のために仕事を捨てよう。」

と思って、いさぎよく旅行業界を引退していた私でした。

それが、子供が高校生になるのを機に、
再び、旅行業界に見事返り咲きを果たしたのです。
この業界は年配者が多いので、私などはまだまだ若い方だと言われました。

こうして、法人としての「週末起業」と、季節業である旅行という
ふたつの仕事を掛け持つ人生が始まりました。

高校生になった息子には、学校の費用の他にも、書籍代、
ヴァイオリンとピアノの月謝などがかかります。

母親はまだまだ現役で働き続けなければならず、
休んでいる暇などありませんでした。

(週末起業、その3へ続く)
  
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2009年02月21日

通訳案内業って?

私がやっている仕事に、いわゆる俗に「通訳ガイド」と呼ばれているものがあります。

正式な名称は数年前より「通訳案内士」ですが、元々は「通訳案内業」と呼ばれ、
運輸省が試験を行なっていました。

もう何十年も前に受験したとき、二次試験(口頭)、三次試験(日本の歴史、地理、
一般常識)を、はるばる霞ヶ関の運輸省まで受けに行きました。

今では、国土交通省の管轄下となりましたが、実際に仕事を行なうためには、
都道府県知事に免許を申請しなければなりません。

さて、この「通訳案内業」という名称を、そもそも誰がどういう経緯で付けたのでしょう?
この名称のせいで、私たちは大きな誤解を受けてしまっています。

私たちの仕事は、「通訳」ではなく、「ガイド&添乗員」と呼ぶのが正解です。
現に、私は「旅程管理主任者」の資格も持っていますし、やっていることの9割以上は、
この「ガイド&添乗」業務です。

もちろん、企業のインセンティブ(報奨)旅行のときには、会社や工場視察、下請けや
関連企業訪問といったこともあり、そんなときは、いきなり、ウェルカムスピーチや、
工場での質疑応答など、通訳めいたことをやらされることもあります。
しかしそれはむしろ例外と考えるべきで、そんな余計な仕事をやったときには、
ガイド料の他に若干の通訳手当がプラスして支給されたりします。

成田、中部(セントレア)、関空などで、訪日団体を出迎えるところから始まる
私たちの仕事は、まず、出迎えに先立ち、貸切バス、スーツケースを運ぶトラックの
配車確認、ポーターの手配確認、ホテルの予約確認に始まります。

無事、到着した団体をバスに迎え入れた後は、ホテルに着くまでの間、
日本滞在のための一般的情報、注意事項、翌日の予定などを話し、ホテルに着くと
チェックイン、モーニングコールの予約、翌日のバスや食事箇所の予約確認などの
仕事が待っています。

そして、いよいよ観光が始まると、京都の歴史、金閣、銀閣、二条城、竜安寺などの
説明を行い、京都のショッピング案内から、夜の祇園、先斗町までやってのけます。

また、長距離ドライブのときには、日本の社会システム、年功制、高齢化社会、
教育制度、政治経済、文化史、宗教、少年問題、雇用問題など、無数のテーマについて、
プレゼンを行ないます。

要するに、私たちの仕事は、自らの言葉で、日本を紹介すること、そして、
旅の間のお世話をすることです。

私たちの仕事仲間は、バスの乗務員さんや荷物を長距離輸送してくださるトラックの
ドライバーさんであり、ホテルのポーターさんやレストランのスタッフであり、
料亭や神社仏閣で脱いだ靴をきちんと見張ってくださる下足番のおじさんだったり
するのです。みなで協力し合って、ひとつの「ツアー」という「商品」を成功に導き、
日本の良い思い出をお国に持ち帰っていただくのです。

その意味で、人の言葉を右から左、左から右へと器用に訳すだけで、自分の考えを
勝手にべらべらとしゃべってはいけない「通訳」とは似ても似つかない仕事なのです。
やや大袈裟な表現ではありますが、私たちガイドが「民間の外交官」と呼ばれる所以は
そこにあります。

ただ、この仕事をするためには、語学試験の中でも最難関のひとつに数えられ、
語学に関する唯一の国家試験である、「通訳案内士」試験に合格しなければならず
そのために、語学さえ出来ればやれる仕事だと勘違いする人が後をたたないのです。

実際にこの仕事をしていると、語学はある程度できて当たり前ですが、
むしろ、語学よりも、もっと大事なことが山ほどあります。

何と言っても接客業ですから、サービス精神旺盛でなくてはなりません。
また、交通事情や天候の変化など様々な状況において適切に対処することも必要です。

そして、何より大切なことは、一回きりのやり直しのきかない「商品」であるツアーを、
きちんと旅程管理すること、そして、日本の歴史、地理、文化、社会に関する
幅広い知識を常に仕入れていることです。

私が、高校生の勉強を一からやり直すことでもっと教養を高めたいと願い、
生涯学習に取り組んでいるのも、元はと言えば、この「ガイド」の仕事を
より立派にやりたいという願いからでもあります。
  
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2006年08月27日

FCバイエルン vs 浦和レッズ4

バルサとの親善試合も終わり、ブンデスリーガも始まっているのに、今更なんでという感じですが、浦和のときにはこのブログが誕生していなかったこと、そして今日写真を整理していたらマスコットのベルニィちゃんの写真が出てきたので、これをきっかけに浦和での話題を。

こう見えても、バイエルン・ミュンヘンの熱烈なファンである息子の影響で多少サッカーにも興味があります。2005年夏はFC東京との親善試合を見に味の素スタジアムまで行ったほどです。

さいたま02ポスター
今年は7月31日にさいたまスタジアム2002で浦和レッズとの親善試合があったので行きたかったのですが、養老町の初日と重なり泣く泣く諦めました(ーー;) しかし、前日の練習風景を見学できるとの情報をキャッチするやいなや、迷わず浦和へ直行。年甲斐もなくバイエルンのユニフォームを着ました(もちろん、そこへ着くまでは普通の服装です)。大好きなオリヴァー・カーンを生で見るのはこれで3回目。きびきびとした掛け声もかっこよく、さすがにほれ込むだけのことはある!と改めて確信しました。ラームも可愛かったー!


浦和での選手バス
さて、練習が終わって選手が出てくるのを待っていると、何と先日あるオーケストラのツアーで一緒に仕事をした添乗員の○○さんが、荷物係としてトラックのところに!思わず駆け寄って話したくても柵のために進めません。そうこうするうち、チームを乗せたバスが・・、と、慌ててカメラのシャッターを押すファンの群れ。自分も例にもれず・・。とその瞬間、それは選手ではなく、報道陣や関係者を乗せたバスだと分かり、思わず周囲から笑いが。そして今度こそは(!)選手達を乗せたバスがやって来ました。誰もかれも、そして息子も自分も、恥も外聞も捨てて、バスの後を追いかけながらシャッターを押しました。その様子はきっと人から見たら滑稽に違いないと思うと、走りながら思わず笑ってしまいました。そのときやっと撮れた(?)写真がこれです。車窓にわずかに見えるのはシュヴァインシュタイガー。ほとんどわからないですね。
さて、例のトラックが出るとき、添乗員の○○さんとチームの荷物係2名乗せたセダンも出発しました。大急ぎで走って、ぎりぎりセダンに追いつき、窓ガラス越しに、自分が今ここに来ていることを何とか伝えました。

浦和のベルニィ

翌日、私は朝から新幹線で養老町に向かい、息子は友達を誘って浦和のさいたまスタジアム2002へ。息子はOB戦の撮影でビデオのバッテリーを使い果たし、肝心な試合はほとんど撮れないという大失敗をしてくれました。しかも、試合に夢中で携帯のことはほとんど忘れていたようです。そんなわけで、本番の写真は一枚もなく、唯一マスコットの熊ベルニィのしかありません。おっと、ベルニィ、ごめんなさい。



その夜、養老町から大垣のホテルに戻った頃、添乗員の○○さんから携帯に留守電が入っていました。翌朝折り返したところ、やはり予想どおり私の尊敬するガイドの大先輩2人が、選手と関係者にアテンドしていたということです、昨年の味の素スタジアムに引き続き・・・。あー、またもや羨ましい!でも、前回は息子がファンなのを知った先輩の一人がチームから直々にプレゼントされたバイエルングッズを一部譲ってくださいました。私が担当したら、きっと仕事にならないですね。サインもらったり、写真撮ったりして、ガイドをクビになりそうです。きっと、遠くから憧れて見ているのが一番いいのです。

それにしても、まるで勉強しないサッカー狂いの息子と一緒になって、追っかけているなんて、自分もミーハーです。ただし、子供の名誉のために言っておくと、彼は追っかけではなく、本当に心の底からサッカーを愛する(!)少年です。

  
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