2010年02月08日

『下流大学に入ろう!』?

えっ?! と一瞬、自分の目を疑ったものです。

改めてよく見てみると、背表紙にはこう書かれていました。

一流大学より未来が開ける 下流大学に入ろう! 山内太地」

この意表をつくタイトルに惹かれて、思わず手に取った私は
ぱらぱらっとめくって目を通すうちに興味をそそられ、購入すると直ぐに
本屋さんの隣りのカフェに入って、むさぼるように読み始めました。

今では大学生となって、青春を満喫している我が子の大学受験。
そう、去年の2月の下旬、国立大学前期の二次が終わり、あんなにも頑張った
数学で泣かされ、私の中に、不合格の影が忍び寄っていたときのことです。

当の本人は、1日目の数学に失敗して、一晩中、悔し涙にまみれながらも、
親切な方の強い励ましの言葉を得て思い直し、2日目を精一杯頑張れたことで
比較的早く立ち直り、淡々と後期に向けて勉強を始めていました。

母である私の方は、傷心から容易には立ち上がれませんでした。

センター後の、二次の数学にかけたあの猛烈な勉強ぶり。
志望校の解答用紙サンプルを何十枚もコピーしてきて、本番さながらに
解きまくっていた姿。

めきめきと解けるようになっていくのが実感でき、大学や模試の過去問で、
「3完だった!」の声が頻繁に聞かれるようになった、そんな上り調子のときに
本番を迎えたのでした。

それなのに、本番でのあまりの運のなさ。
試験会場でどれだけ考えても、頭が真っ白になってしまって手掛かりが
掴めなかった問題が、帰りの電車の中で解かったというのです。

現役時には受験勉強の開始が遅すぎて、落ちたのも無理のないことですが、
このときは1浪で、本人も親も、これが最後のチャンスと思っていました。

あの問題さえ出来ていたら合格するはずなのにという
言いようのない悔しさと、不憫さで、胸が張り裂けそうでした。

私はこの絶望的な境地からの救いを求めていました。

そんなときにたまたま立ち寄った本屋さんの受験コーナーで出会ったのが、
『下流大学に入ろう!』です。

一流大学だけを目指していた自分は間違っていたのだろうか?
世の中にはまったく違った価値観があるのではないだろうか?
第一志望校に行けなくても、道は開けていくのだろうか?

様々な思いが頭をよぎりました。

通った名門小中学校で屈折したエリート意識を植え付けられていた私は、
自分を苛める子を見返すには自分も一流の仲間入りをするしかないと
子供ながらに感じていました。

それにもかかわらず怠惰によって一流の夢を放棄した自分は、
子供にはそんな思いをさせたくないと、幼少からバイオリンで能力を開発し、
中学受験をさせ、父親のいる家庭以上の教育環境を整えてきました。

その集大成とまでは行かないまでも、一つの本格的な関門が大学受験だと
思っていました。ところが今、不合格の影が忍び寄ってきたのです。

下流大学に入ろう!


下流大学に入ろう!









カフェの窓辺の、ゆるやかに日が差し込むテーブルで、
買ったばかりの本を読み始めた私は、しばらくすると溢れる涙を隠していました。

こんな見方があったのだ! こんな価値観があったのだ!

実態とはおよそかけ離れた、一流意識だけが一人歩きしていたような
屈折した自分の心、その生き方、その子育て。

愚かにも似非エリート階級にしがみついていた、その帰属意識が
音をたてて崩れるようでした。

真のエリートなら、こんなことにはならない。
私を、幻想から目覚めさせてくれた1冊でした。

この本の中に、こんな文章があります。長いですが引用します。

富士山型から八ヶ岳型に発想を転換せよ

すべての人には、無限の可能性possibilityがある。個々人の能力potentialに
差はあるが、すべての人が自分のベストを尽くし成長できれば、世の中は
良くなっていくのではないかと私は考えている。

いままでの画一的なエリート養成では、知のグローバル化に対応できない。
だからこそ、多様性diversityを認めるべきではないか。

(中略)

多様性を認めるというのは、富士山型から八ヶ岳型への発想の転換である。
ご存知だろうが、「八ヶ岳」は山々の総称であり、八ヶ岳という名前の山は
存在しない。名も知らぬ山のそれぞれが頂上を持っているのだ。

つまり、何でも東大が一番。官僚なら財務省が一番トップ、新聞社なら
政治部が一番えらい、業界のナンバーワン企業大好きという発想を捨て、
いろんな人が自分の立場で考え、行動し、意見を出し合い、互いに学び合う
べきだ。お上に依存し、思考を放棄していては、望ましい未来は切り開けない
「一億総勉強化社会」(知識化社会 knowledge society)こそ、
日本の生き残るべき道なのだ。
 

*太字と下線は私が引いたものです。

発想の転換か!
これまで自分は何と狭い社会の中で生きてきたことか。

偏差値エリートではない、確かな自分を持った人間。
世の中に出て、自力でどんどん人生を切り開いていける人間。
そんな子供に育って欲しかったのではないか。

そして、それは第一志望校の結果ににかかわらず、ある程度まで
達成できているのではないか。
自分の子供が信じられないのか。

こんな思いを胸に家に帰ってきたのでした。

著者の山内太地氏は、今も日本中、世界中の大学を訪問して、
感じたことを発信しておられます。

山内氏のブログ → 世界の大学めぐり

この記事へのコメント
杏仁豆腐さん、こんばんは!

杏仁豆腐さんも芸術系だったのですか?!
どうしても芸大がいいから、all or nothing になったのですね。
どの芸術分野かは知りませんが、アンコールワットなどに行かれるだけでも、違うなあ、さすがだな!あって思っていました。

進学も自然がいいですね。自分の気持ちに正直に!
ものすごく頑張って高いところを目指したければそれも良し。
もっと他のことに価値を置くなら、大学に行く必要も必ずしもないし。

オーストリアの私の知り合いは銀細工師ですが、中卒で親方に弟子入りして、20代で独立して工房を持ちました。自分のところでデザインしたジュエリーを売っています。大学に行くという発想などありませんでした。

私の国内の知り合いは、高校卒業後すぐにパン職人になるためドイツに渡りました。
いろんな生き方があるからいいのですね。
Posted by MIKO at 2010年02月09日 22:51
あるパパさん、こんばんは!

大阪芸大のことはよく知りませんけど、そこに自分がやりたい分野があれば当然そちらを選ぶでしょうね。
でも、世の中には学部は何でもいいから〇〇大学に入れればいいという人もいますね。
そういう人はその大学の一番入りやすい学部を狙うわけです。
就職でどっちみち会社員になるなら、何学部出ても同じと考えるのでしょうね。
4年間、辛くないのかなあ。
Posted by MIKO at 2010年02月09日 22:27
あるぱぱさんが芸大のことを書かれていたので・・・。
私も芸大を目指していて、芸大以外は行く気がしなかったので、その当時は、「全か無か」の、二者選択しか考えられませんでした。

エリートコースを選べる人は、エリートコースに行けばいいのだと思います。
だって、行けるんだもん。

行けない人は、行けないのだから、違うトコに行けばいいことで、道はいろいろあるでしょう?って思ってます。

東大に行った友達は、集英社に入って、好きな漫画の編集やってます。
出版社などは、むしろ私大の方が入りやすいんだって言ってました。
変わったヤツでしたが。
Posted by 杏仁豆腐 at 2010年02月09日 00:09
たとえば…

今もう一度受験するとして…

東京芸大と大阪芸大の両方に受かったとして…

どっちに行く?!と聞かれたらやっぱり大阪芸大だと思います。ま、分野が違うと言うのはあるんでしょうが ぼくは一流大学よりもそういう野暮な大学が好きなんですよね。て、あんま関係ないっすかね。
Posted by あるパパ at 2010年02月08日 17:30