2009年11月26日

駒場祭見物

11月23日(祝)、東大の駒場祭を見物してきました。

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朝9時7分の駒場キャンパス正門風景

この日、朝一番の予定は、ブログのお友達、高砂ママさんと初めてお会いして、
息子さんのパイプオルガンを聴かせていただくことでした。高砂ママさん、おおらかで
落ち着いた雰囲気の方で、著述活動もされているということでした。

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息子さんの見事な演奏に感心すると共に、パイプオルガンの音楽ってバロックだけ
と思っていた私に、この日、新しい視野が開けました。
近現代にもパイプオルガン用に書かれた曲があったのですねーー!!

ちなみに、バッハの「前奏曲とフーガ イ短調」を演奏された方は、オルガン科卒
ではないかと思うほど、プロ級の腕前でした。

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さて、次は何かというと、筑波大生と一緒に息子さんが開発に携わっている
未来志向の電子楽器の紹介でした。筑波大学情報学群情報メディア創成学類の
鎌谷崇広さんが、この楽器の音の出るしくみなどを説明してくださいました。

回転する光の弦と身体を交差させることで音が鳴り、身体(特に足)の動きに応じて
音の性質が変化するそうです。開発にはIPA未踏IT人材発掘育成事業「未踏ユース」
の支援を受けているそうです。

本体の周りをぐるぐる回る緑色の光線を追うことに一生懸命になるあまり、
楽器の頭が欠けてしまいました。写真撮影技術ないので・・・(涙)

今回展示の試験的作品の前身であるbeaconに関しては、以下の情報があります。
beacon 感性x筑波大xデザイン展
また、来る11月28日(土)13:30-14:00に、日テレ系の「はんにゃのこの手があったか!」でも取り上げられるそうです。

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次は、ブログのお友達、ひろじぃさんの折り紙を見せていただきました。
前回、五月祭のときもそうでしたが、ひろじぃさんの作品には「鶴」のテーマが多く、
同系色の濃淡をうまく使い分けて、とてもセンスが良いのです。昆虫や怪獣など、
複雑怪奇な折り紙が多い中で、彼の折り紙はとにかく優しいのです。

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ひろじぃさんと私。
ひろじぃさんの模擬店では、美味しい中華まんをご馳走になりました!
それから、生協の食堂にも連れていってもらいました。
いやあー、自分の時代の学食と違って、献立の内容が豊富なこと!

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私は、中華丼(M)と、小豚汁、秋のバランス惣菜をいただきましたが、
美味しくてお腹がふくれて、これでたったの530円。

他にも、サンマの塩焼きや、肉じゃが、ほうれん草のお浸し、大学ポテト、
サラダバー、デザートまであり、料理のきらいな私は、交通費を払ってでも
時々食べに来る価値があるのでは?と思いました。

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食後、外に出ると、正門入ってすぐのところで、縄跳びを含むアクロバット的
パフォーマンスが人気を集めていましたが、動きが激しくてうまく撮れませんでした。

最後は、「ミス&ミスター東京大学コンテスト」の見物です。
桂由美デザインのウェディングウェアを身にまとったエントリー・カップルが
次々にステージに登場して、司会者からインタビューされていました。

一番左のカップルの女の子が、お友達の池田麻衣子さん。池田さんが見事、
2009年度のミス東大に輝いたことは、先日の拙ブログで報告済みです。

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2009年11月25日

収穫の秋 - 勤労感謝

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この写真、何だかわかるでしょうか?

11月22日(日)、仕事で明治神宮に参拝したときに撮った写真です。
翌日の勤労感謝の日の準備が行われていたのですね。

このお供え物は、この秋とれた新鮮な野菜をふんだんに積んだ宝船です。
他にも、各地から奉納されたお米や野菜が、拝殿前の回廊をぐるりと一周するように、
お供えしてありました。

物作りの感動、あるいは、技術革新ということを前に書いたことがあります。
通訳?〜物作りの感動
技術革新

農作物も道具も、自分では何一つ作れない私にとって、ものを作り出せる
ということは驚異です。

11月23日は今では「勤労感謝の日」と呼ばれていますが、
もともとは、その秋の収穫をお祝いして、お百姓さんの労働に感謝する日で、
新嘗(にいなめ)祭と呼ばれるものでした。その日にちが11月23日に定められたのは、
明治以降のことだそうです。

今年、今上天皇が即位されて早くも20周年を迎えましたが、天皇即位後の
最初の新嘗祭を、特別に「大嘗(だいじょう)祭」と呼んで区別しています。
大嘗祭に関しては、8世紀初頭に編纂された『古事記』にも、天照大神の大嘗祭
に関する記述があるそうです。

食料があり余っているかのように、無駄使いをしている今日の私たちですが、
戦時中は、配給米だけではお腹がふくれず、おかゆの中味はほとんどがサツマイモ、
そこに大根や雑穀を混ぜて、ほんの僅かでも白米が入っていれば、その粒を数えて
食べていたほど白米が恋しかったという話を、母から何度も聞かされました。

戦争が終わっても、まだまだ食料事情は貧しかったのです。
ケーキだって、今のように、いつでもどこでも売っている時代ではなく、
一年に1回、クリスマスの時期にだけ製造されて売られているものでした。

他の地域に目を向ければ、今も多くの国が深刻な食糧問題をかかえています。

日本だって、日本人にとって必需品である大豆の自給率はわずか5%。
95%を輸入に頼っています。だいぶ前のことになりますが、冷夏でお米が取れず、
値段が急騰し、お米屋さんの前に長い行列が並び、中国やタイ、アメリカからの
輸入米にすがったこともあります。

古くは平安時代や江戸時代にも、天候異変による飢饉で多くの餓死者が出ています。

普段はこんなことを考えずに呑気に暮らして、食材を無駄使いしていますが、
1年に1回、こんな日だけでも、天の恵みと、お百姓さんの労働に対して、
感謝の気持ちを改めるきっかけにできたらと思います。

この世から、食べ物も道具もなくなったなら、私は何も生み出すことができず、
したがって1日も余分に生きることが出来ないのですから、死活問題です。

この危機感を、日々ほんの少しでもいいから、感じていたいと思います。
  

2009年11月24日

2009年度 ミス東大

11月23日(祝)、東大の駒場祭で、ミス&ミスター東大コンテストがありました。

お陰様で、子供のヴァイオリンのお稽古での幼馴染、池田麻衣子さんが、
見事、2009年度の「ミス東京大学」に選ばれました!!


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写真 向かって
左  ミス東大   池田麻衣子さん(理科2類、1年生)
右  準ミス東大  酒井まゆうさん(文科3類、2年生)

拙ブログを通じて応援してくださった方、投票してくださった皆さまに
この場を借りて、心からお礼申し上げます!!

麻衣子さんのお母様も大喜びで、皆さまに感謝しておられます!!
(この写真はお母様の許可を得て、麻衣子さんのブログよりお借りして
使用させていただきました)
  

2009年11月23日

東京外国語大学文化祭

11月21日、爽やかなお天気の中、東京都府中市にある東京外国語大学の
「外語祭」に行ってきました。

東京外語は大阪外語と並んで、かつて自分が憧れた大学です。
いずれも国立二期校で、入試科目に数学(2B)まであり、レベルが高いので、
雲の上の存在でした。

農家の畑がちらほら見られる、のどかな住宅街の中を走る、西武多摩川線の
多磨という駅から歩いて3分ほどのところにそれはありました。

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キャンパスに足を踏み入れると、校舎に囲まれて大きな広場があり、その広場を
ぐるりと一周するように、模擬店が並んでいました。さすがに国際色豊かで、
世界中の料理が勢ぞろいしています。ざっと見渡しただけでも、タイ、ラオス、中国、
スペイン、チェコ、・・・・・ etc.

写真は、ベトナム料理と、ブラジル/ポルトガル料理です。

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食べることも楽しみのひとつでしたが、この日の一番の目的は、
お友達から誘われた朝鮮舞踊を見ることでした。

古代日本の朝鮮半島との人物と文化往来の歴史にロマンを感じた私は、
30代の一時期、渡来人や帰化人について調べたことがあります。

以来、何故か朝鮮風(!)に惹かれ、池袋の三越で李朝風の家具を見たときには
一目惚れしてその場で一式を特注。洋風のナラ材の神戸家具をすべて取り払って、
インテリアを李朝風のケヤキですっかり置き換えてしまった私です。

2年前のお正月には、ついに念願かなって、高3も間近の受験生の子供を連れて、
意気投合して、ソウルに飛びました。

そんな私が、本場でも日本でもまだ一度も見たことがないのが、朝鮮舞踊でした。

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優雅な舞い、力強い音楽、目の回るような動きの激しい踊りなど、さまざまな踊りと
音楽を堪能させてもらいました。

何より驚いたのは、踊りそのものもですが、それ以上にその笑顔でした。
舞っている間じゅう、美しい微笑みが絶えないのです。

優雅だけれども、バレエのように絶えずくるくると回る舞に、笑顔が伴っているのです。

先月、京都で舞妓さんの踊りを見たばかりの自分としては、むっつりとした顔で、
表情を変えることなく踊る日本舞踊との間に、180度異質のものを感じました。

日本は古代より中国と並んで朝鮮半島から積極的に大陸文化を摂取していますが、
日本にも伝わらなかった、あるいはその後に独自の発達を遂げたのかもしれない、
これほどに異なる文化的背景が海の向こうにあったとは、目からウロコでした。

とにかく、こぼれるような笑みの美しさと、包み囲むような、おおらかな麗しさに
心の底から驚嘆したのです。

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踊りの後は、再び広場に出ました。
そこでは、ビッグバンドの演奏がなかなか魅力的で、しばらくは立ったまま
聞き惚れていました。

さて、またどこで何を食べるかについては迷います。
あまりにもバラエティに富んでいるからです。

こちらは、モンゴル料理、トルコ料理、そしてフランス料理です。

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うーん、散々迷った挙句、やっぱり、足は朝鮮料理へと向かいました。
キムチチゲと、チヂミ(朝鮮風お好み焼)です。

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そして、締めくくりのデザートには、別のお店で、アメリカ(?)風のココナッツ餅とやらを
いただきました。これがなかなかの美味で、はまった! また、食べに行きたい!!
  

2009年11月22日

中学受験 - 学校選び(2)

変化が起きたのは、小6になってからでした。

小5で引越しをした我が家では、小6になると、遠いサピックスに通わせるのが
苦痛となりました。そこで、小6の夏休みから近くにある日能研に移りました。
(このことに関しては、こちらで 学費:大学vs中学受験塾

もうかなり記憶が不確かですが、日能研には土特(土曜特訓)というのがあって、
夏期講習が終わると、志望校別に分かれて週1で別校舎に通うことになりました。

その志望校別クラスには、私のお気に入りのS中はありませんでした。
そこで、やむを得ず、KT中対策クラスに入れていただきました。
これまでに考えたことのなかった学校です。

慌てて、KT中の学校説明会に行きました。
校舎の廊下を、茶髪の少年が走るのを見てびっくりしました。
規律のしっかりしたS学園では考えられない光景だったからです。

私は、KT中の学費が高いのと、母親たちのサークル活動が大変活発なのが
自分の肌に合わない気がして、最後まで乗る気になれませんでした。
あくまでも、志望校別で他に入るクラスがなかったから在籍したのです。

しかし、このクラスで9月、10月、11月と過ごしていく中で、肝心な子供の方は
友だちもでき、問題傾向も自分に合っていると見て、この学校を受験したいという
気持ちが高まってきました。

11月には、子供の第一志望校はKT中と決まったようなものでした。

一方で、その頃、私の中に急に浮上してきた別の学校がありました。
名前こそ知っていましたが、偏差値が高いし、何より家から大変遠いので、
それまでは候補として浮上することなどあり得なかったのです。

何故、いきなり浮上してきたかと言うと、これまで通っていたサピックスと、
転校した日能研では、地域がまるで違うので、話題に上る学校も違ったのです。

急浮上の学校にとりつかれた私は、大慌てで情報をかき集め、隅々まで熟読し、
秋のある日、その学校がその年に行った最終の説明会に駆け込みました。

遅刻でしたが、肝心なことには何とか間に合いました。
入ってすぐに聞いた、校長先生と教頭先生のお話には共感を覚えました。

校長先生の、「本校では、茶髪を禁止しています。髪を染める行為自体は、
個人のおしゃれの問題であり否定するつもりはないが、学生の本分は
一生懸命に勉強し、体と心を鍛え、社会生活を学ぶことなので、この大切な
中高の6年間には、髪を染めることよりももっと重要なことがあります。」
というお話には、まったく賛成でした。

躾が行き届き、規律あり、凛としているのが、私の描く中高生像だったのです。

教頭先生のお話は校長先生よりも迫力があり、声も大きくて説得力があり、
言われることのすべてに、なるほどと感服しました。
特に、受験に必要な主要教科だけでなく、音楽と体育教育に非常に熱心に
取り組んでいるのが、教頭先生の偽りない教育理念によることを確信しました。

願書を入手して帰宅する途中の私の胸の中では、この学校に寄せる思いが
急速に高まっていきました。

子供自身がまだ聞いたことも見たこともない学校を最終候補に入れた私は、
日能研の模試や、四谷大塚の合不合判定テストでは、この学校を志望校に含めて
書くように言いました。手掛かりが欲しかったからです。

結果は、日能研では、そのときどきによって40%〜60%ほどの合格可能性でしたが、
四谷大塚の方は10%で、「志望校の変更を検討すべし」と印字されていました。
四谷大塚のテストは慣れていないのだから力が発揮できなかったのだと割り切り、
年末が近づいても、同校に寄せる私の思いは変わりませんでした。

一方、子供の心は、依然として、第一志望 = KT中で固まっていました。

KT中に関しては、信じられないほど何も記憶が残っていないのですが、
模試での判定は80%ほどで、ほぼ確実ではないかと、そんなところでした。

2月1日校をKT中にすると、かつての憧れ、S学園の1日は受けられません。
そうなると、S学園は2月2日に挑戦することになります。

すると、急浮上したあの学校は、いったい全体、どこへ?!

それからが大変! 候補+α の学校の受験日と合格発表日と手続締切日を
徹底的に調べて書き出し、会社へも常に携帯し、お昼にお弁当を食べながら
まるでパズルのように、学校をあれこれ入れ替えてみて、頭の中はそのことで
いっぱいになりました。

受験生の親ランキング

幸か不幸か、会社では、例年、年末年始にかけて大掛かりなプロジェクトを
何本も抱えており、私はその担当者となっていたので、昼休みが終われば、
すぐさま現実に引き戻されて、仕事の鬼とならざるを得ず、よって、受験校の
組み合わせパズルの泥沼につかってばかりいる余裕はありませんでした。
  

2009年11月21日

荷物のこわさ(2)

旅の荷物について、9月30日に「荷物のこわさ(1)」で体験を書きました。

これに関しては、他にもまだ色々な話があるので、ここでいくつか書き留めて
おくことにします。

【ニュルンベルクでの失敗】

若い頃、添乗でドイツのロマンチック街道に幾度となく足を運びました。
そんな毎回似たり寄ったりの、代わり映えのしない旅程のツアーが続く中で、
この苦い失敗は起こりました。

それは、ニュルンベルクを出てローテンブルクに移動する日でした。

朝、バスで出発する前に、お客様のスーツケースがホテルの玄関前に
ずらりと並びました。各部屋から出た個数と合計の個数を数え、お客様にも
その場で確認していただき、ホテルのポーターに、バスに積み込むための
OKの合図を出すのは、添乗員のルーチンの仕事です。

その日も無事個数を確認して、荷物を積んだバスは出発したのでした。

長いこと走って、ローテンブルクのホテルに着いて、バスから荷を降ろすと、
スーツケースが1個足りません。慌ててドライバーに聞くと、ホテルのポーターと
積み込んだときには個数は正しかったと言います。

まさか、途中で落としてきたわけでもあるまいし、これは大変!と、
前のホテルに電話を入れると、1個、ホテルに置き忘れてあると言います。

こんなとき、日本のホテルなら、こちらが問い合わせるまでもなく、向こうが
気を利かせて、「積み残し」荷物について、必ず次のホテルにメッセージを送って
くるところですが、外国ではそこまで親切な人ばかりではありません。

しかし、この件ばかりは、誰のせいにもできない、完全なる自分のミスでした。
ポーターとバスドライバーに積込みを任せていてはいけないのです。
その日に限って、油断して、積込みの現場を監督しなかった私の落度でした。

さて、この荷物をどうやって今日のホテルに運ぶのか?
このホテルには1泊しかせず、翌日はロマンチック街道をずっと南下して、
オーストリアとの国境近くまで行くので、どうあっても今晩中に届けてもらう
必要があるのです。

お客様には当座の必需品を買って差し上げ、お部屋にはお詫びの印として
フルーツバスケットを差し入れました。

一方で、朝発ったホテルには、鉄道を使って輸送を手配してもらえないかと依頼。

ところが、しばらく待って返ってきた答えは、その日はメイデー(5月1日)で
鉄道が全面ストライキに入ってしまったので、輸送は不可能、ストが終わるまで
待てるか?とのこと。

待てる訳がありません。それまでにはまだ丸2日あります。
そんなに長い間、お客様を待たせる訳にはいかないのです。

そこで、最終手段として、タクシーを飛ばすしかなくなりました。
ああ、待っている時間の長いこと、長いこと!

夜遅くに、スーツケースを1個乗せたタクシーが、ローテンブルクに着きました。
高額のタクシー代とチップを支払って、無事、荷物をお客様のお部屋に届け、
やれやれして、へなへなっと崩れるように、ベッドに横たわったのでした。

そのタクシー代を自腹で払ったのか、旅行会社で精算してもらったのか、
あまりにも遠い昔の話ゆえ、忘れました。

自腹で払ったなら自分の落度が返す返すも悔しいし、旅行経費にしたなら、
始末書の一枚も書かされたことでしょう。・・・・・ 何故か、記憶がありません。

しかし、このとき学んだ教訓だけは忘れません。

仕事に慣れてきたときこそ、要注意!
ちょっとした気の緩みからくる油断が、大失敗に!
初心忘れるべからず!


荷物だけは、とにもかくにも、ダブルチェック、トリプルチェックを怠らず、
人任せにせず、自分のこの目で、きちんと最終確認をすることが大切です。
  

2009年11月20日

Xmasイルミネーション

まだ11月というのに、日本の街は、早々とクリスマスの装いです。

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JR 京都駅構内  巨大クリスマスツリー
2006年11月20日撮影

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多摩ニュータウン Xmasイルミネーション 2006年11月16日撮影


★ クリスマスの飾り付けに思う ★

早くから飾って、クリスマスが終わるとすぐに片付けます。それと同時に、
街の装いも人々の気分も180度変わって、お正月の準備に入ります。

ヨーロッパやアメリカでは、お正月を過ぎてもクリスマスツリーが飾ってあります。
(一番下に、写真あります!)
日本では、大晦日にはお寺の除夜の鐘を聞き、お正月には神社に初詣に行きます。
伝統の違いですね。

でも!!
わずか10日の間に、キリスト教、仏教、神道という3つの異なる宗教の
お祭りごとを渡り歩くのが、日本人の特徴です。


日本人は、その歴史を振り返ればわかる通り、
大陸や西欧と接触する度に、そのときどきの新しい文化を受容し、
自分の中に摂取し、それをより高め、洗練させていく能力に優れています。

起源のまるで異なるものが、互いに折り合いをつけ、矛盾を感じさせることなく、
渾然一体となって、人々の生活の中に溶け込み、脈々と受け継がれている。


日本のユニークさ、魅力は、そこにあると思います。

もっとも、日本のクリスマスは、ほとんどの人にとっては、
プレゼントを交換し、ケーキを食べ、綺麗な飾り付けを楽しむ機会。

小学校1年生のとき、父がクリスマスツリーの木を担いできて、
色とりどりの飾りや、キラキラ星や、白い綿の雪で、飾ってくれた ・・・。
そして、壁から壁へと部屋中に豆電球を張り巡らしてくれた ・・・。

その下で味わった、懐かしいクリスマスケーキ。
ちょっと固めのバタークリームで出来た薔薇のつぼみが行儀よく並んでいて、
その上に銀色の粒がまぶしてあって ・・・。

クリスチャンではないけれど、1年に1回限りの"ケーキ"という食べ物と、
綺麗なツリーと、交互に点滅する色とりどりの豆電球のある、ささやかな日に
夢を感じ、胸を躍らせたのは、私だけではないでしょう。


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ニューヨーク証券取引所前の
クリスマスツリー
2006年1月1日撮影

クリックで拡大表示できます。

  

2009年11月19日

里の秋

昨日、東京地方は爽やかなお天気に恵まれました。
ここ数日、家の中でくすぶっていたので、気分転換に散歩に出かけました。

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近くの農家には、柿がたわわに実っています。

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関東八十八ヶ所霊場 第六十四番 岩子山千手院の門前

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農家の庭先
菊、大好きです!

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行けども、行けども、一面、ススキの原
  

2009年11月18日

中学受験 - 学校選び(1)

毎年こんな時期になると懐かしく思い出すのが、中学受験の学校選びです。

もう随分と前のことになるので詳細は忘れたのですが、中学受験準備の一環として
あちこちの学校に見学に行き始めたのは、子供が小学校3年生のときでした。

その頃、長い夏休みの間、学童保育の代わりとして子供を日中預けておけて、
しかも勉強も教えてもらえるという一石二鳥の魅力に惹かれて、進学塾サピックスに
小3から通わせたことは前にも書きました。

環境とはおそろしいものです。
毎月配られる塾の会誌や保護者会、講演会などから得る情報によって、
親の心はどんどん中学受験へと本格的に盛り上がっていくのです。

このような過程で、親たちが決まって計画することのひとつに、学校見学があります。
それも、文化祭や運動会といった生徒達の生の姿に触れられる機会を狙うのです。

我が家では、小3のとき、都内にあるK学園の運動会に連れていったのを皮切りに、
K学園の文化祭、A学園の文化祭、T中高の文化祭に連れていきました。

K学園の運動会では、12才のまだあどけない坊やから、ほとんど大人と変わらない
高校の上級生までが一丸となって繰り広げる、男子中高一貫校の運動会の迫力に
圧倒されました。

しかし、我が子はまだまだ小3、そんな雰囲気に格別憧れるといった様子もなく、
中学受験などというまだずっと先のことは、じきに本人の頭から忘れ去られました。

サピックスへは、ただ友だちに会えるから、塾が楽しいから、先生が好きだから
行っていただけで、受験という概念は子供の頭にはこれっぽっちもないのです。

翌年、小4のときに連れて行った各校の文化祭では、子供自身の得る印象も
ぐんと変わって、かなり具体的になってきました。

K学園の音楽室で聞いた、生徒達によるヴァイオリンやピアノの演奏では、
感激して、その場でアンケートに感想を記入して提出しました。

A学園では、生徒達が営業するクラシック音楽喫茶で、
低学年が作って出してくれた、分量がまちまちの飲み物に親子で吹き出しました!
同じ飲み物を注文したのに、深さが2cmも違うのです!
聞くと、何でも、これが最後で足りなかったのだそうです。

「だったら、値段オマケしてよ!」とか、「均等に注いで!」とは言いませんでした。
そうクレームをつけるには、あまりにもあどけない中学生たちだったからです。

こんなあやしい喫茶店でしたが、そこでライブで聞いた生徒たちの演奏は
素晴しいものでした。私たち親子は熱心に聞き入り、これらが強烈な印象として
心に刻まれたことは確かです。

また、同じくA学園の昆虫標本展示では、見に来ていた同校の上級生が、
後輩のカブトムシを見るなり、「ゴキブリかー?!」と冷やかしたのを、
「カブトムシですよ!! 先輩、酷いです!!」と真顔で怒っていた姿に、
傍観者の私たちは思わずくすっと笑って、ああ純真だなあと感動したものでした。

T中高の文化祭では、同校にオーケストラがなく、ブラスバンドしかないと知って、
志望校候補から外しました。 ・・・・・ も、もっとも、・・・・・ 候補に入れたとしても
到底受験できるレベルの学校ではありませんでしたが。(泣き笑い)

受験生の親ランキング

その後、とあることから私自身が大変興味を持った学校にS学園があります。
そこの学校説明会には、子連れで2回、私だけで1回の、合計3回も行きました。
そのくせ、運動会や文化祭には一度も行かずじまいでした。

S学園の校長先生のカリスマ性に何故か惹かれました。
それと、同校の伝統となっている、大菩薩峠越えや、剣道の寒中稽古、
房総での褌をつけての古来泳法の習得、といった体育会系&精神修養系の行事と、
学校案内の写真で見た、上着に黒い縁取りのある独特の学生服に身を固めた、
凛とした少年たちの姿に憧れました。

我が子もこのような正真正銘の文武両道の学校で、体と精神を鍛えて欲しいと願い、
この学校もブラスバンドしか持たないことなどは、実際どうでも良くなりました。

その頃の子供は、まだ親の考えにかなり影響されていたと思います。
あまりにも私が、S中、S中と言うので、子供もその気になっていたようです。

あの黒い縁取りのある上着丈の短い制服をまとった、凛とした我が子を想像して、
小4、小5時代を過ごしたように記憶しています。
  

2009年11月17日

修学院離宮に寄せて

先日の拙ブログ記事 「美しい日本の秋 - 1」 を見て、
ブログのお友達 "つとさん" から、修学院離宮のお話が出ました。

行くならば、11月23日ごろが一番だと、里山の眺めが素晴しい・・・ 牧歌的だと。

仕事柄、それこそ何十回、いえ多分、百回は京都に行っている私ですが、
不思議なことに、修学院離宮には、まだ一度も行ったことがないのです。

この機会に、幻の修学院離宮に関する2つの思い出を記録しておきます。


◆ 昔、知人のドイツ人(美術史家)が語った感想 ◆

人工の世界(註:建築や庭園)と、借景としての本物の自然との間に、
いささかの境も感じさせない、縫い目のない、ひと続きになった、調和の美。

借景を取り込んだ庭園は数多くあるけれど、修学院離宮のそれは、
他とは一線を画する、究極の空間。
日本人の美意識と哲学が成しうる技の極地。

この言葉が、今でもとても印象に残っています。


◆ 大昔、私が犯した、いたいけない罪 ◆

小学校4年生のころ。
保護者のための特別な日帰りの旅が企画されました。
「京都−修学院離宮を訪ねる旅」 というものでした。

参観には宮内庁の許可が必要であるため、何ヶ月も前からお知らせが配られ、
母は参加を申し込んでいました。

小学校は名古屋にあり、まだ新幹線もなかった時代ですから、
参加者は貸切バスで京都に行くことになっていました。

実家が空襲で焼け落ち、裸一貫で結婚して新しい生活を築いてきた母ですから、
ろくに旅などしたことがありません。もちろん、京都は初めてでした。

母がどういう気持ちでその日を待ち望んでいたのか、今では知る術もありません。
ただ、その旅を私がぶち壊したことだけは、今なお鮮明に覚えているのです。

当日の朝、「行かないで! お願い! 行かないで!」と、あらん限りの力で、
母の手を引っ張って、止めたのです。

なぜ行かせたくなかったのか、・・・・・・・
なぜか、・・・ その貸切バスが事故に遭って、母がいなくなってしまうと、
・・・・・・・ 本当に、そのときは、真剣に、そう案じたのです。

それまで、学校に行っている間や、友だちと遊んでいるときを除いて、
母と離れ離れになったことがありませんでした。

早朝から夜まで母がいなくなるということが、とてつもなく悲しく、
もしかしたら、それっきり会えないかもしれないと心配したのでした。

母を乗せずに出発したバスは、保護者たちのそれぞれに楽しい思い出を乗せて、
無事に学校に帰ってきました。

後に、母は京都に2回行っていますが、ついに修学院離宮を訪れることは
かないませんでした。

つとさんのお言葉をきっかけに、私も元気なうちに、一度は行ってみたい ・・・。

晩秋もいいけれど、寂寞とした、冬枯れの、少し雪が舞うような日も、
なかなか味わい深いのではないかと思うのです。

修学院離宮は、私にとって、永遠の幻、モノトーン、水墨画の世界です。
  

2009年11月16日

根気?のなさ?

このところずっと無理矢理にふたをして、なるべく考えたくないことがありました。
考えたくないと言っていること自体、そのことを考えていたわけですが ・・・。

どうしてこうなってしまったのか、・・・ ずるずる、だらだらと、ごまかしているうちに、
もうどうすることも出来なくなりました。

2月に入団して、11月の定演には出てみせると始め意気込んでいた弦楽オケ、
月にたった2回しか練習日がないというのに、3月から7月まで、見事にほとんど
仕事とかぶってしまい、出席したのは数えるほどです。

せめて8月からは出席しようと思ったのですが、あっという間に、曲数が増え、
「アイネ・クライネ」を除いて、多少なりとも弾ける曲が1曲もないのです。

せっかく久しぶりに行けると思う日は、私の弾けない曲ばかり。
手も足も出ない曲では、出席する意味がありません。そうこうするうち、秋になると
再び仕事やツアーと日程が重なって出られなくなりました。

春のうちこそ、欠席の度にトレーナーの先生に電話をかけていましたが、
次第に電話するのも億劫になって、もう何ヶ月もずるずるとお休みしていました。

最近、久しぶりにトレーナーの先生に電話をして事情を話しました。
すると、弾ける曲だけでも舞台に出られるよう、指揮者の先生にお願いしてあげると
おっしゃってくださったのですが、1曲のために何万円も払うのも何だし、・・・・・
それに、・・・・・ 演奏のことだけでなく、他にも行くのをためらう理由があることを
お話しました。

実は、6月ごろ、内部の事情もわからないまま、オケのホームページの作成と管理を
安請け合いしてしまったのです。

私には音楽関係のホームページを作った経験があり、それでもって小さなビジネスを
起こしたことがあるので、テンプレートも、画像も、壁紙やアイコンなどの素材もいくらか
あるのです。だから、それを使えば、1日か2日で体裁ぐらいは整えられると思いました。

一応の目安として8月末完成を宣言したのですが、何と、私が引き受けた役目には
落とし穴があったのです。・・・・・ 要するに、面倒なオマケがついていたのです。

そうと知っていたなら、最初から引き受けませんでした。
引き受けた後で言われてしまったから、「しまったー。大変なことになったー。」と
頭をかかえたのです。

そのオマケの仕事とは、ホームページのフォームメール経由での問い合わせに
メールで返信をし、見学希望者がいれば、その日時を設定し、当日は、訪問者を
出迎えて練習会場にお連れするところまでをコーディネイトすることです。

つまりは、ホームページの製作だけでなく、ホームページに関係した一切合財を
ひとりで担当するということなのです。

団員用ページの、練習日程表の更新程度ならいつでもやれると思っていました。
しかし、こんなコーディネイト業務までは ・・・。

「そんなことは初耳だ!」と言って逃げようとしたのですが、相手と面と向かって
ついに言う機会を逸してしまいました。

そのまま、ずるずると時間が経ち、とうとう演奏会が迫ってきたので、
この間、トレーナー先生に事情を話したのです。

先生は、「それは貴女には無理な話です。」と言って下さいました。

そうです! 仕事のメールも山のようにあり、また、春秋の観光シーズンには
ツアー先でネット環境がないこともあるのに、・・・・・ それに何より、自分自身が
満足に練習に出られないのに、そんな役目が務まるはずがないのです!

もちろん、すべてボランティアです。
いえ、仮に報酬をもらったとしても、出来やしません!

そんな訳で、いよいよ今月末に演奏会がやってきますが、曲が弾けないことの他に、
役目を果たしていない負い目があるので、どうしても行けないのです。

それで、昨年末から真剣に調べて、あちこちを見学、検討した結果、今年の2月に
入団したこのオケを、続けられなくなったのです。

後味は良くないのですが、続けられないこと自体は少しも悔やんでいません。

やはり、どう考えてみても、月2回とはいえ、仕事と重なって出られないことは、
これから先も十分に想像できます。ほとんど出席できないまま、月謝を払い続け、
1曲のためでも何万もの演奏会費を負担するのは、経済的にも大変です。

そこで、きっぱりと辞めました!
もう二度と、オケに入ろうなどという大それたことは考えません!

オケは、子供だけで十分です。
私は、ときどき子供に教えてもらいながら、スズキの4巻のヴィヴァルディA-minorと
バッハのドッペルのセカンドをテンポで弾けるようになって、5巻に進めさえすれば、
それで大満足なのです!

決して悲そうな気持ちではありません!

人と合わせられるレベルでない自分がしゃしゃり出て仲間に迷惑をかけ、
その上、おそらくは、休んでばかりいる不真面目な団員というレッテルを貼られ、
おまけに手に負えないようなボランティアを引き受けてしまい、にっちもさっちも
いかない状況に置かれている。・・・・・・ それよりは、さっさと辞めて、自分自身の
演奏の進歩を目指す方が、よほど気分が良いのです。

一時期はひどく落ち込んで、自分に力がないことは十分にわかっているが、
その上に、意志や根気までも欠けているのかと自問自答しましたが、違います!

根気は、ここにちゃんとあります!
ただ、さまざまな事情で続けられなくなることはあるのです。
そう、思うことにしました。

そして、近いうちに、また自分の安物の楽器を出してきて、ヴィヴァルディを
CDに合わせてテンポで弾けるようになるまで、メトロノームを使って、自分に
特訓を課そうと思っています。
  

2009年11月15日

矢切の渡し - 野菊の墓

10日ほど前に「寅さん」ゆかりの葛飾区柴又に行ったとき、江戸川で「矢切の渡し」を
見てきました。

初めて行く場所なので、事前に都庁でもらってきた柴又の観光案内チラシを読むと、
矢切の渡しは、伊藤左千夫の小説 『野菊の墓』 の舞台となったと書いてありました。

柴又から帰るとすぐに 『野菊の墓』 を買ってきました。
高校時代、夏休みなどの推薦図書に名が挙がっていたような気がします。
ネットで調べてみると、度々映画化もされています。
かなり有名なお話のようですが、この年になるまで読んだことがありませんでした。

そもそも自分は小説というものをあまり読んだことがないのです。
ところが、ここ1、2年前から、小説を読んでみたいという気持ちがわいてきました。
何という心境の変化でしょうか。

年をとったせいかもしれません。
あるいはまた、近現代史に興味がわいてきたからかもしれません。
東進で、野島先生の日本史や、出口先生の驚異の現代文を受講してから、
明治、大正、昭和(戦前)の日本に興味を持ったのです。

近代化、合理化の波の中で、歴史舞台の陰にいた圧倒的多数の一般民衆が、
どのようなことを考えて暮らし、どのように日本を愛し、その文化を守ってきたのかを
小説を通じて知りたいと思うようになったのです。

とは言っても、こと近代だけに限っても数え切れないほどの小説があります。
それらを前にして、ああ、いったい自分はどこから始めたらいいのか!?と、
ろくに文学史を知らない私は悩みます。

そこで、こう割り切って考えることにしました。
「よーし、何でも良いから、きっかけを掴んでいこう!」と。
こうして、「寅さん」→「柴又」→「矢切の渡し」→「野菊の墓」となったわけです。
そして、その結果は、
・・・・・・・・・・・・・ 一晩で読みきったのですが、泣いたの何のって!!

布団の枕元の明かりを頼りに読んだのですが、ティッシュの箱を枕元に引き寄せ、
左手で引っ張り出しては目に当て、右手でページをめくりながら、読んだ、そして、
泣いた、泣いた。
そのままその晩は泣き寝入りしました。

なぜに、これほどまでに純粋で無垢な思慕があるの?
なぜに、それが報われなくて、あのような結末となるの?

町の中学に入るために渡し舟で遠ざかっていく政さんの姿を、矢切の渡しで
いつまでも見送る民さんのあわれな姿。それを見て涙を抑え切れない政さん。

明治の農村の人々の暮らしぶりと、山や畑の風景描写。
細部に渡る心理描写。素朴ながらも、効果的な小説の展開。

これは、単なる明治の悲恋小説では終わらないと思いました。
少なくとも、人生の大半をアナログ時代で過ごした自分には、
現代人の心をも捉えて離さない普遍性が感じられました。

ある散文の勉強会の席上で、この小説を自ら朗読した左千夫が、
いく度も泣いたことを、その会に出席していた高浜虚子が記していると、
巻末の解説に書いてありました。

左千夫自身が何度も涙にくれるというのは、似た経験があるのでしょうか。

いずれにしても、この短くも哀しい美しい小説にめぐり合わせてくれた
「寅さん」と「柴又」と「矢切の渡し」に感謝です。
  

2009年11月14日

美しい日本の秋-2

霜月(11月)の景色、第2弾。

061120_Hozu_RapidShooting1


京都 保津川下り


丹波亀岡から嵐山までの約16kmを

およそ2時間で下ります。



2006年11月20日撮影





061120_Hozu_RapidShooting












この年、保津川下りの紅葉はイマイチでした。
それでも、ところどころ、山の斜面をおおう紅葉が、渓流に姿を映し出しています。
あたり一面には、もう、ひんやりとした空気がただよっています。
2006年11月20日撮影


061125_MtFuji2



帰りの飛行機から見えた富士山!

7(?)合目あたりまで雪化粧です。

それにしても、この裾野の広いこと!



2006年11月25日撮影





061125_MtFuji1


こうしてアップで見ると、
宝永山のこぶ、本当に邪魔だなあ。

1707年11月に始まり、
120キロ離れた江戸の地にまで
灰を積もらせた大噴火が
作ったものです。



2006年11月25日撮影  

2009年11月13日

美しい日本の秋-1

霜月(11月)の景色。
今年は見に行けないので、ちょっと前の写真を出してきて、懐かしんでみました。

061119_Koyasan












弘法大師空海の真言宗金剛峰寺がある、高野山(和歌山県)の秋
2006年11月19日撮影


061120_SaganoBamboo2



京都

嵯峨野の竹林


深まりゆく秋に


2006年11月20日撮影






061120_TenryujiAutumn1


京都 嵐山

天龍寺の庭園


2006年11月20日撮影




  

2009年11月11日

大手神話の崩壊

航空会社大手の日航が、目下、経営再建問題に立たされています。
こんな時代がやってくるとは、誰が想像したでしょう。

思い起こすに、高校時代、日航のスチュワーデス2名と社員が学校にやってきて、
海外へのジャンボ旅客機採用を機に客室乗務員を大幅に増員するとのキャンペーンが
行われました。

大卒の初任給が4万円前後の時代に、高卒でも月給が10万円以上取れて、
その他に海外便勤務手当ももらえて、破格のボーナスも支給され、さらには、
毎週のように海外に飛んだ後には、2日ほど海外でバカンスを楽しめると言われ・・・。

その上、その上!!
機内で着る「着物」の着付けも、メイクも、英会話も、会社が社員教育の一環として
レッスンを提供してくれるという、まるでシンデレラのような話ばかり!それだから、
スチュワーデスに応募しようかしらとちょっと考えてみた時期もあるのです。

当時、日航のスチュワーデス応募要項には、確か、「身長158cm 以上、容姿端麗」
と書いてあり、身長の条件は満たしていたのですが、・・・・・ 容姿の方が・・・・・。
クラスメートから「自分の顔、鏡で見てみな!」と言われて、すっかり自信を失くし、
素直に元通り、大学受験をすることにしたのでした(笑)

とにかく、その頃の日航は、二番手、三番手を大きく引き離して、鼻高々。
その輝かしい栄光ぶりには、畏敬の念すら抱いたものです。

それから10数年の後、二番手のANA(全日空)がついに海外路線に就航し、
その記念すべき初のロサンジェルス便に私は乗ったのでした。

旅(添乗)の目的地は、メキシコのアステカ文明の遺跡だったのですが、
まずはLAXに飛んで、初日はそこに一泊する必要がありました。
その日、たまたまだったのでしょうが、私の乗った全日空機が太平洋上で
大きなエアーポケットに入ってしまい、縦方向にかなり長いこと揺れました。

あのときは生きた心地がせず、「海外が初めての全日空、本当に大丈夫?!」と、
天下の日航に乗れなかった自分の運を悔やみました。

そんなことをリアルタイムで経験してきて ・・・・・。
だから、なおのこと、日航の経営難は、どうあっても予想外のことなのです。

「大手なら大丈夫!」の神話が崩壊して日本中を震撼させたのは、バブル崩壊後の
ほぼ同時期に発生した、山一證券と日本長期信用銀行の経営破綻でした。

財テクに手を出して失敗し、元本割れという苦汁をなめさせられた山一證券と、
5年間固定の高金利「ワイド」という商品で元金を大幅に増やしていただいた
有り難き日本長期信用銀行、・・・・・ いずれも、プラスマイナスの両面で、個人的に
スゴイ経験をさせてもらったので、それらの会社の倒産は衝撃的でした。

その後、銀行の生き残りがきびしくなり、あちこちの銀行が合併を繰り返すように
なりました。中でも、名称まで完全に変わってしまった銀行(みずほ、りそななど)は、
元がどの銀行とどの銀行の縁組だったのか、記憶をたどることさえ難しくなってきました。

三菱東京UFJは、三菱銀行と、外為に特化した東京銀行と、UFJ銀行が合体したもの。
さて、このUFJの前身が何であったか、覚えている人はいるでしょうか?

昔、大阪に本店を構える三和銀行がありました。こんなところにスキャンダルの話は
本当は持ち込みたくないのですが、哀れな美人行員が愛人に貢ぐために会社のお金を
使い込んだとしてニュースになった銀行です。

一方、名古屋を中心とする中部商業圏を引き受ける名門に、東海銀行という大手が
ありました。私の父などは、東海銀行をカリスマのごとく妄信していて、東海以外には
絶対に預金しないという頑固な姿勢を貫いていました。

この三和と東海が結びついて誕生したのが、UFJ銀行です。
それが、さらに、東京三菱銀行とくっついて、今日のメガバンクが誕生したわけです。

こうした過程で、どれほど多くの人が、気にそまない部門に配置転換されたり、
希望退職の道を示唆されたり、転勤を余儀なくされたりしたことでしょうか。

一方、元国営・公共事業でも、JNR(旧国鉄、NはNationalの略)が巨額債務解消の
ために民営化してJRとなり(Nがとれた)、日本専売公社や日本電信電話公社もそれぞれ
民営化の道をたどりました。郵便局も管轄の役所が次々と変わり、ついには、郵便、貯金、
保険の事業種別に分かれて民営化するという道をたどりました。

国鉄の民営化では、相当な数の人が職を失い、大きな社会問題となりました。

こうした20年先の運命も解からない目まぐるしい変遷の中をくぐり抜けてきた人なら、
さすがにもう、「大手なら絶対に大丈夫!」という神話にすがりついてばかりは
いられないでしょう。

受験生の親ランキング

これからは、自分で道を切り開いていかなければならないのです。
一流大学 → 一流会社 という図式は、100%の保障を意味しないのです。

大手だっていつ倒産するかしれない。つぶれないまでも、所属部門が完全撤退して
失業に追い込まれるケースもあります。

終身雇用・年功序列といった伝統的な日本の企業のあり方も、欧米、特にアメリカの
影響下で、急速に崩れつつあります。

日本固有のボーナスが継続して支給されるという保証も、今やどこにもありません!

一流大学 → 一流企業 を夢見て、受験に熱狂する人は、今一度、頭を冷やして、
何のための受験勉強なのか、大学では何を学ぶのか、その先の人生に、これらの勉強を
どう結びつけていくのか、ということをよく考える必要があると思います。

目先だけの点数に一喜一憂しない心のゆとりを持ちたいものです。